Devotion〜小川紳介と生きた人々
原題:Devotion
台湾国際ドキュメンタリー映画祭2001 ベルリン国際映画祭2001 山形国際ドキュメンタリー映画祭2001特別招待
2001年/日本・アメリカ/カラー/ベーカム/82分/ 配給:パンドラ/配給協力:BOX OFFICE
2002年1月26日よりBOX東中野にてレイトロードショー公開
公開初日 2002/01/26
配給会社名 0063
公開日メモ 小川紳介の名はドキュメンタリー映画史上に燦然と輝いている。成田新東京国際空港建設反対闘争と共にあった70年代の三里塚シリーズ、80年代に入り、拠点を山形に移してからも、現地の人々との〈交流〉の中から作品を作り続け、2本の長編ドキュメンタリーなどを完成させた。
解説
小川紳介の名はドキュメンタリー映画史上に燦然と輝いている。成田新東京国際空港建設反対闘争と共にあった70年代の三里塚シリーズ、80年代に入り、拠点を山形に移してからも、現地の人々との〈交流〉の中から作品を作り続け、2本の長編ドキュメンタリーなどを完成させた。
世界でも稀な、スタッフが生活を共にする中から生まれた小川監督の映画は、日本はもとより、世界中で格別な評価を受けているが、同時代を生きた日本のフィルムメーカーはもとより、アジアのドキュメンタリー・フィルムメーカーに与えた影響は、特に大きい。佐藤真、呉文光(ウー・ウェンガン)、ビョン・ヨンジュ、彭小蓮(ポン・シャオリエン)と数え上げればきりがないほどであり、その影響は、フィルムメーカーにとどまらない。日本が世界に誇る〈山形国際ドキュメンタリー映画祭〉は彼がいて初めて成立した映画祭であり、また、東アジア、中国・台湾・韓国でドキュメンタリー映画製作が盛んになった背景として、小川監督の存在は無視できない。
だが、わずか55歳で逝き、2002年ですでに没後10年になる小川監督は、小川プロダクションのスタッフと共に、18本の映画を残しただけでなく、1億円の借金も残している。この事実の背景に、どれだけの人々の物語があり、それは何を示唆しているのだろうか。参加したスタッフは当時何を考え、いま、どのように生きているのだろうか。小川プロダクションの生活と製作の実態、小川監督の口にしていた言葉と実際、といった〈小川紳介と小川プロダクション〉の実像はあまり知られていない。
長編ドキュメンタリー『Devotion一小川紳介と生きた人々』は、小川プロダクションのスタッフだった人々や、同時代を生きた映画人たちへのインタビューと、当時の映像を中心に、小川紳介と小川プロダクションの活動を今日的視点から探ることにより、〈映画製作の不条理性〉〈共同体と個人の関係の在り方〉〈女性の自立〉などのテーマを提示し、その真実に迫った意欲的なドキュメンタリーである。
『Devotion一小川紳介と生きた人々』は、映画づくりに人々を吸引した小川監督が、強烈なカリスマ性と不条理とも言える発言で製作を進めた事実をあきらかにしている。それは、単に事実の羅列にとどまらず、人と人との関わりについて、時代を超えて存在するある普遍的なテーマを提示している。この点で、この作品は21世紀を生きる私たちへの贈物であるともいえよう。
監督は実験的な数多くの映画で知られる、アメリカ人女性フィルムメーカーで、山形国際ドキュメンタリー映画祭`95の審査委員長も務めたバーバラ・ハマー。東京都女性財団からの援助も受けて、日本とアメリカとの共同作業により完成された後、2000年の台湾国際ドキュメンタリー映画祭、2001年のベルリン国際映画祭などで、すでに上映され、高い評価を受けている。
ストーリー
「小川プロが日本に存在したのは一つの時代的な奇跡である」−大島渚
小川プロのスタッフだった人々やその家族、同時代を生きた映画人たちへのインタビュー、当時の映像から構成される本作には、数々の貴重な証言が収められている。
「一人一人では万能にはなれないが、集団では各個人が一つの仕事を責任を持ってやれば大きなことができる」というのが小川紳介の集団論だった。そのような共同性のあり方に魅かれて小川プロに参加したスタッフたちが、参加の動機を語る。「とにかく映画がやりたくてしょうがなかった」。「映画ではなく運動に興味があった」。「小川プロの一員になりたいと強く思った」。「共同生活ということに興味があった」。時は60年代後半の政治の季節。
バリケードの中で三里塚の映画を見て参加を志した人もいた。当初、小川プロの映画製作は社会運動・学生運動との密接なつながりがあった。
三里塚の女たちは語る。闘争の中ではじめて女が発言するようになった、女の方が先に機動隊の前に出て行った、と。権力とのたたかいが、農村の女性たちの従来のあり方を変えたのだった。そういった女たちをカメラは捉えていた。
映画製作には当然お金がかかる。生活するにもお金がかかる。映画製作の理想の前には小さい問題に思えるこの「お金の問題」が、小川プロとその周辺の関係者の周りには常につきまとっていた。映画製作を光の部分とするなら、それは影の部分であった。
小川プロの映画製作は、常に心ある人からのカンパによってなりたっていた。そのお金は、運動へのカンパであり返ってこなくて当然と思っている人もいれば、返してもらえると思っていた人もいた。無名の手紙は言う。「彼らの仕事の仕方に深い疑問を持つ。200万近く貸しているが、一度「もう少し待ってくれ」という電話があったきり、連絡がない」。
映画監督の原一男は、お金を返せないのは小川監督自身が一番わかっていたはずだ、と言う。「作品で返す」という考え方で、周りも、そして自分をも納得させていた。
小川プロは政治的な意味でも、映画的な意味でも、色々な意味で注目されすぎていた。
共同生活をしながらグループで作品を作り続けるというスタイルを世界に先駆けて作らなければいけない、それが将来の映画作りの最良のかたちなんだということを、自分たちのうちに持ちすぎていた、と元スタッフの見角貞俊は言う。
小川プロでは「無名性」ということがよく言われていた。映画にもスタッフのクレジットは入っていない。しかし結局、「小川紳介」の名前だけが残った。
元スタッフが山形に移った時のとまどいを語る。学生運動の延長だと思っていたが、「問題は映画だ」という方向に変わった。激しい落差があり、かっての小川プロとは違うものになったと思った、と飯塚俊男は語る。
こういった小川プロの内部にいた女性たちの立場はどのようなものだったのだろうか。
多いときで14人程のスタッフの中に女性が一人、食事を作りに来るというのはかなりの精神的負担であり、体調を崩し入院した人もいた。食事は小川監督が気に入るものだけ作る。
メニューは肉中心だった。
自分にとって小川プロは誇りだったが、そういう人たちが女性差別をするというのが苦しかった、と伏屋弓子は言う。飯塚広子は、男と女がひとつの共同体を作っていく時に、どのように仕事を分担しあうのかというイメージを持つことが出来なかった、と言う。
山形に移るというのは、フィルムメーカーとして一つの方法を捨て、新しい方法を見つけるという事でもあった。そんな時、病魔が襲った。不安神経症だった。小川紳介が自分の体調のことだけを気にするようになり、スタッフとの溝が出来た。それは小川プロにとって一番苦しい時期だった。
小川プロではセックスは完全に排除されており、とても不自然に映ったと、ベルリンで通訳を務めた和泉勇は言う。元スタッフは、朝早くから田んぼの世話、夜は遅くまで小川監督の話を聞く日々で慢性疲労でそれどころではなかったと語る。結局小川監督に惚れた人が男も女も集まっているのが小川プロなのだった。
元スタッフの見角貞俊は言う。スタッフと小川監督の間には精神的なホモセクシュアルな関係があった、それゆえに小川プロは成立し、それゆえに崩壊したと。スタッフにとって小川監督は、乗り越えるべき父であった。そこにはある種宗教的な関係性があった。
スタッフにとって、いかに辞めるかというのが大きな問題となってくる時期が来た。辞めたいということが言えずに、入院中に手紙で辞めると告げた人もいれば、妊娠を契機にやめようと実際妊娠・出産した人もいた。一人一人が自立すると同時に、小川監督とは違う作品を作る方法を試したい、と思ったり、あるいは本当にもう映画はだめだと思って辞めていった。
スタッフ
監督:バーバラ・ハマー
キャスト
大島 渚
原 一男
ロバート・クレーマー
土本 典昭
黒木 和雄
羽田 澄子
白石 洋子
ほか
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