チスル
原題:Jiseul
歴史から抹殺された韓国現代史最大のタブー
2013 米サンダンス映画祭 ワールドシネマ・グランプリ受賞 2013 仏ヴュソル国際アジア映画祭 ゴールドサークル賞受賞 2012 韓国釜山国際映画祭 4部門受賞 (ネットパック賞、市民評論家賞、韓国映画監督組合賞、CGVムービーコラージュ賞)
2013年/韓国/108分 配給:SUMOMO
2014年3月29日公開
(C)2012 Japari Film
公開初日 2014/03/29
配給会社名 1391
解説
3万人以上が殺され、多くの島民が日本へ渡った。
彼らはなぜ、故郷を捨てなければならなかったのか——。
1948年4月3日、南北に分割統治されていた朝鮮半島で、南朝鮮だけの単独選挙に反対した済州島(チェジュ)の一部島民たちが、武装蜂起する。それが発端となり、同年秋からは、米軍の作戦統制下にあった韓国軍と警察が、海岸線5kmより内陸にいる人間を暴徒と見なし、無差別に虐殺。3万人以上の無辜(むこ)の民が犠牲になった。日本に逃れた島民も多く、事件前に28万人いた島民は激減した。
「済州島4・3事件」と称され、長い間タブーとされてきたこの悲劇が初めて劇映画となった。
65年間封印された時間。
世界遺産・済州島で起きた知られざる慟哭の実話。
済州島は、人口約55万、面積1845㎢、大阪府ほどの大きさで、朝鮮半島の西南に浮かぶ日本に最も近い韓国の島である。独特の文化を持ち、韓国本土の人でも理解できない方言が特徴的だ。また、済州の火山島と溶岩洞窟が2007年に韓国初の自然遺産でのユネスコ世界自然遺産に登録され、いまや年間観光客数が1,000万人を超える。しかし、そんな人気観光地の過去を知る人は少ない。
歴史から抹殺された韓国現代史最大のタブー。
済州島出身のオールスタッフ・キャストが渾身の映画化。
監督は済州島で生まれ育った新鋭オ・ミヨル。沈黙を強いられてきた慟哭の歴史を世界に問うべく、済州島出身のキャスト・スタッフが結集。年老いた体験者に聞き取りし、実際に島民が逃げ込んだ洞窟を使って撮影が行われた。タイトルの『チスル』は、済州島の方言で「ジャガイモ」を意味する。負傷した軍人にまでジャガイモを差し出した優しい気質の島民と銃を向けた軍人の苦悩を真摯に捉えた。
韓国最大の悲劇、済州島4・3事件を通して、なぜ殺されるのかわからず死んでいった人々、なぜ殺すのかわからず殺した者、戦争が引き起こす不条理を、圧倒的な詩的映像で描き出す。
『息もできない』を超えて異例の大ヒット。
韓国映画初、サンダンス映画祭ワールドシネマ・グランプリ受賞。
韓国では、ヤン・イクチュン監督『息もできない』のインディペンデント映画動員記録を塗り替え、異例の大ヒットを記録した。釜山国際映画祭でもNETPAC賞、市民評論家賞、映画監督組合賞、CGVムービーコラージュ賞の4部門を席巻。ロッテルダム国際映画祭、ヴズール国際アジア映画祭など世界からも注目を集め、サンダンス映画祭では韓国映画として初めてワールドシネマ・グランプリを受賞した。4・3事件はアメリカ軍の介入によって発生した事件のため、サンダンス映画祭での受賞は特別な意味を持つ出来事となった。
【済州島4・3事件】
済州島4・3事件とは、1948年4月3日から1954年9月21日までの間、南朝鮮だけの単独政権樹立を意図する選挙を阻止しようとした済州島の民衆の抵抗とこれに対する米軍政及び韓国の軍・警察による鎮圧に伴う虐殺事件のこと。事件の始発点となった1947年3月1日から事実上7年7ヶ月も続き、これにより約3万人を超える島民が殺された。
【経緯】
1945年9月に日本が連合国に降伏すると、アメリカ軍とソビエト連邦軍が朝鮮半島を北緯38度線で南北に分割して占領した。それぞれ米ソの力を背景に、南部では李承晩(イ・スンマン)を中心とする勢力が、北部では金日成(キム・イルソン)を中心とする朝鮮労働党が基盤を固めていった。
1947年3月1日、済州島内で行われた3・1節の集会で警察が発砲。子どもを含む6名の島民が死亡し、10名が重傷を負った。この発砲事件を正当防衛と主張した警察当局に抗議して全島でゼネストが始まったが、ゼネスト首謀者に対する検挙作戦が展開され、ひと月もの間に500人が逮捕され、4・3事件直前までの約1年間に2,500人が拘束され拷問が続いた。これにより米軍政や警察に対する島民の反発が強まる。
同年夏、アメリカは、朝鮮人の自主的な統一臨時政府を樹立し信託統治を経て独立させるというソ連との合意を反故にして、国連監視下の選挙による新国家樹立を提起する。南朝鮮単独での選挙実施の可能性が高まると、国の分断を決定的にするものであるとして朝鮮全土で単独選挙に反対する声が高まったが、国連はソ連の反対にもかかわらず、事実上、単独選挙の実施を決定した。
1948年4月3日、発砲事件以来横行する拷問への反撃と単独選挙反対を掲げて、300人余りの武装隊が済州島内の24の警察支所のうち12箇所の支所を一斉攻撃する。しかし、銃器は旧式のものが30挺ほどで小さな暴動に過ぎなかった。米軍政はこれを警察と国防警備隊を動員して短期間に鎮圧したが、この事件を機に更なる凄惨な殺戮劇が幕を開ける。
米軍政は5月10日の単独選挙を成功させようと邁進したが、200箇所の選挙区中、済州島の2箇所の選挙区だけが投票数の過半数未達という理由で無効になった。選挙の結果として8月15日、南部に大韓民国の樹立が宣言された。一方、9月9日に、北部に朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。済州島の事件は単純な地域問題の枠を越え政権の正当性に対する挑戦と認識され、事態はさらに激化していく。
10月中旬、韓国軍第9連隊長が、済州島の「海岸線5kmより内陸にいる人間は暴徒と見なし、無条件に射殺する」という布告文を発表する。さらに、11月17日には、済州島一円に戒厳令が敷かれ、中山間地域の村を焦土化する大々的な鎮圧戦が展開される。米軍の報告書には「第9連隊は、中山間地域の村の全ての住民は明白にゲリラ部隊に施しと便宜を提供しているとの仮定に基づき、村人に対する“大量虐殺計画(Program of mass slaughter)”を採択した」と記されている。鎮圧という名の無差別な虐殺が始まる。
1950年6月、朝鮮民主主義人民共和国が大韓民国に侵攻し朝鮮戦争が勃発すると、済州島の惨状はいよいよ熾烈さを極める。朝鮮戦争休戦の1953年頃には残余の武装隊もほぼ掃討され、最後の一人が逮捕されたのは1957年だった。7年もの間に約3万人もの島民が犠牲になり、その大半は政治やイデオロギーとは無縁の島民だったと言われている。
済州島の古来よりの複雑な歴史背景によって、朝鮮本土からの迫害や差別を受けていた島民は、新天地を求めて日本へ移住あるいは出稼ぎをし、併合初期に来た最初の20万人ほどの朝鮮人の大半は、済州島出身であった。日本の敗戦により植民地支配が終わると、そのほとんどが帰国したが、この事件から逃れるために再び日本へ渡り、そのまま日本で生き続けることになった島民も少なくない。事件前に28万人いた島民は1957年には激減していた。
韓国では、4・3事件は長らく『共産主義者による暴動』と規定され、事件を語ることさえタブー視されてきた。しかし21世紀になって、金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)両政権下で自国の歴史清算事業が進められ、4・3事件に対する真相調査が始まった。その調査結果に基づき、2003年10月、盧武鉉大統領が済州島を訪れ、遺族と島民に謝罪した。2006年には、大統領として初めて4月3日の慰霊祭に出席した。
ストーリー
1948年10月、「海岸線5kmより内陸にいる人間を暴徒と見なし、無条件で射殺せよ」。突然、韓国軍から発表された布告文に島民たちは恐怖で右往左往する。噂に翻弄されて、ある者は山に逃げ込み、あるものは銃を取って抵抗しようとする。抵抗しながらも、島民は明日には全てが終わり、いつもの暮らしが始まるものと信じていた。しかし、漢拏山(ハルラサン)の麓にある村を占拠した韓国軍は村人の虐殺を開始。家を焼き払い、女・子供を問わず人々を追い始める。家に戻れないことを悟った人々は、洞窟に立て篭もり、生き延びようとする。
本作は韓国の祭事方式に乗っ取った散文的映画手法で描かれている。
スタッフ
監督・脚本:オ・ミヨル
キャスト
ヤン・ジョンウォン
イ・ギョンジュン
ソン・ミンチョル
ホン・サンピョ
ムン・ソクポン
パク・スンドン
カン・ヒ
LINK
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