2013年/カラー/96分/HDV/ステレオ/日本 配給:オフィスフォー=トラヴィス

2013/3/2(土)東京都写真美術館ホールほか全国順次公開

公開初日 2013/03/02

配給会社名 1392/1274

解説


‘原発’ がこの村、この家族を変えた……。
  強く生きる。今はそれだけ。

2011年3月11日東日本大地震、そして太平洋沿岸部500キロに渡る大津波により多くの人々が犠牲になった。また、その翌日の3月12日からの福島第一原発の爆発により大量の放射能が放出された。この映画は2011年5月福島第一原発北西に40キロの福島県飯舘村から始まり、そこから避難したある家族と、いまだ警戒区域で300頭の牛を飼い続けている畜産家の日常を追った記録です。その背景には、原発事故後牛を殺処分させられた酪農家が自殺した事件、フィリピン人妻を持つ家庭の現実など様々な問題が存在した。監督は「忘れられた子供たち スカベンジャー」で第44回マンハイム国際映画祭ベストドキュメンタリー賞を受賞した四ノ宮浩。震災直後の2011年4月下旬から福島に入り撮影を始め、2012年12月末までカメラを回し続けた。作品完成後も監督は福島を忘れないために現地に居続けている。
 
飯舘村は日本一美しい村と呼ばれていたが、原発爆発後、放射線量が高く、4月下旬には全村避難の政府命令が出された。大量の放射能汚染により、農家、酪農家には作付制限や出荷制限が行われ、風評被害も生じていた。その中で、住民は収入の道が閉ざされるとともに、一家がバラバラになっていくことも危惧していた。乳幼児のいる家庭は早くから避難しているものの、放射能自体が目に見えず、影響がわかりにくいものであることから、住民自身も混乱していた。また、線量が村で最も高い長泥地区の住民の1人は、東京電力、政府の情報の遅れにより、避難できずに被曝させられたと怒りをあらわにした。
 
飯舘村の幼稚園、小・中学校は、村の隣にある川俣町の学校に間借りしていた。子供たちは避難したくはないが、被曝するよりはマシと答える。生徒たちの中には、高橋家長女あきなちゃん(12)、次女えりかちゃん(11)がいた。姉妹の家族は山の中にある飯舘村岩部部落から川俣町へ避難するという。
高橋一家は建設作業員の夫、正夫さん(55)。飯舘村の製作所で働くフィリピン人の妻ヴィセンタさん(45)。幼稚園に通う長男まさとくん(4)。体調のすぐれないおばあちゃん(81)の6人家族で犬のポチも入れて慎ましい生活を送っていた。
5月末、高橋一家は川俣町に避難した。岩部の長年住み慣れた家を後にしたが、犬のポチだけは、連れて行けなかった。川俣町の新居では、家財道具が日本赤十字社からの支援物資として提供された。川俣町は比較的放射線量が低く、今まで外に干せなかった洗濯物も外に干せるようになり、生活環境が変わっていったものの高橋家は順調な生活を続けていた。しかし、あきなちゃんの通う中学校では生徒が次第に転校していた。
 
 高橋家が避難した矢先の6月10日、相馬市に住み、フィリピン人を妻に持つ酪農家菅野さんが自殺した。ヴィセンタさんはその酪農家の妻と知り合いで、菅野さんは30頭の乳牛を飼っていたが、原発爆発後、借金があったため、牛を処分させられ、たい肥小屋に遺書を残し、首を吊った。話を聞きに訪れると自殺した菅野さんのお姉さんたちに取材を断られた。
菅野さんを知る人は口々に原発爆発後、原乳の出荷停止にあい、借金もあり、酪農業を続けられなくなったこと。また、原発爆発後、妻が子供を連れ、母国であるフィリピンに避難したことで菅野さんが寂しかったのが自殺の原因では、と言っていた。
 再度訪れた菅野さん宅には、妻のバネッサさんがおり、菅野さんの自殺したたい肥小屋を教えてもらった。バネッサさんは今でも、亡くなった夫のことを考えると心が苦しいと答えた。たい肥小屋を訪れると菅野さんが書いた遺書がそのまま残されていた。「原発さえなければ」という文字が壁板に殴り書きされていた。
 川俣町に避難した高橋一家でも異変が起きていた。夫の正夫さんは仕事を休み、持病の高血圧の定期検診を受けて帰宅し、ビールを飲んでいた。また、妻のヴィセンタさんは川俣町に移ってから疲労から夫の弁当を作らなくなった。そのことが原因で夫婦はケンカをし、撮影が一時中断した。

 8月、原発20キロ圏内で行われている取り組みに対しての取材許可が下りた。原発問題に取り組んでいる元議員によって、ある牛小屋を案内されると、避難民に取り残された牛が骨と皮になって餓死をしていた。しかし、原発から北西に14kmの浪江町に農場を持つエム牧場浪江農場では原発爆発後も300頭の牛の飼育を行っていた。場長吉沢さんは畜産農家として、原発爆発後も残り続けることは畜産農家の意地のようなものだと語った。吉沢さんに案内されて、浪江町に入ると道路上に船が打ち寄せられていた。浪江町の請戸海岸では2キロに渡って津波の被害が生じ、618軒の家が消失していた。また、20キロ圏前のトンネルでは毎時83μシーベルトが計測された。吉沢さんはその後、東京電力に抗議し、度重なる交渉の結果、エム牧場として5億円の賠償金を受け取った。
 
 夏休みに入り、高橋家での撮影が再開した。高橋家の子供たちは、友達が泊まりに来たり、一家の夕ご飯をつくったりして過ごしていた。まさとくんの通う幼稚園では、夏休み期間、川俣南幼稚園に間借りしていたが、すでに幼稚園児童は半分になっていた。
ある休日、岩部部落の人々が集まり、毎年恒例の岩部部落の草刈が行われた。夫、正夫さんは岩部部落の住人とダム、墓地、神社の草刈を行った。岩部部落住人の1人は東京電力からの仮払い金100万円によって働かずに遊び歩いている避難民について話す。その数日後、正夫は疲労のため、仕事中に倒れ、病院で点滴を受けることとなった。夜になっても体調が戻らず、川俣町の自宅で横になって休んでいた。
 お盆休みの日、高橋一家はお墓参りに出かけた。久々に帰る岩部部落では、台風の影響で家の綻びが目立つ。高橋家の飼っていたポチは、落雷の中で、亡くなっていた。娘たちはポチの墓前にドッグフードを供える。岩部部落墓地では、家族は他の住人の墓にもお供え物を供える。
お墓参りを終え、岩部高橋家に一端戻った妻ヴィセンタさんが電話をしていた。フィリピンの妹との電話であり、弟が行方不明になっているという話だった。ヴィセンタさんは地震以降弟と会っていなかった。ヴィセンタさんはフィリピンに帰りたいと妹に洩らす。実はヴィセンタさんはフィリピンの家族に仕送りをしていた。
 
 9月、高橋家は福島市松川にある飯舘村仮設住宅に引っ越すことになった。高橋家のおばあちゃんはあちこちに引っ越す生活に不満を抱いている。2012年6月再度高橋家を訪れると、ヴィセンタが仕事をやめ、正夫さんがは、職場で4mの橋げたから転落し、半身不随になって入院していた。子供たちは成長していたが、夫の正夫さんも自らの姿を映すのを拒否して撮影は終わった。
 全村避難からおよそ1年が経った飯館村では、除染が始まっていた。最も放射線量が高かった長泥地区も7月中旬にバリケードで封鎖され、5年間帰ることができなくなっていた。ほぼ変わらない放射線量であり、除染作業をする作業員は防護服に身を包んでいた。
仮設住宅にいたおばあちゃんがぽろっと言った。「おらたちは自分の食う野菜と米が作れねえと帰れねえんだ」

*このドキュメンタリー映画「わすれない ふくしま」は神戸大水害、神戸大空襲、阪神・淡路大震災を体験して生きぬいた佐久間みち江さんの資金協力と映画「わすれない ふくしま」製作委員会のカンパを元に製作されました。

ストーリー






スタッフ

監督・編集:四ノ宮浩
製作プロデューサー:佐久間肇 遠藤久夫
撮影:柿木喜久男
整音:滝澤修
助監督:進士靖悦
配給プロデューサー:金子学
エンディングテーマ曲:こいずみゆり「虹」
音楽協力:鈴木雅明(バッハ・コレギウム・ジャパン)
製作:オフィスフォー 映画「わすれない ふくしま」製作委員会
配給:オフィスフォー トラヴィス

キャスト

LINK

□公式サイト
□この作品のインタビューを見る
□この作品に関する情報をもっと探す