悲しみのミルク
2009年 第59回ベルリン国際映画祭 金熊賞、国際批評家連盟賞 モントリオール国際映画祭 批評家連盟賞 メキシコ・グアダラハラ国際映画祭 最高賞、主演女優賞 キューバ・ハバナ映画祭 最高賞 ペルー・リマ映画祭 最高賞、主演女優賞 コロンビア・ボゴダ映画祭 最高賞 第10回東京フィルメックス上映作品 2010年 アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
2008年/ペルー/カラー/97分/ 配給:東風
2011年4月2日(土)〜ユーロスペース、4月23日(土)〜川崎市アートセンター、その他全国順次公開
(c)Courtesy of Wanda Vision
公開初日 2011/04/02
配給会社名 1094
解説
本作は、ペルーの歴史の傷跡をその身に引き受けた娘ファウスタをめぐる寓意劇である。過去への厳しい眼差しと未来への希望を独特の映像美に結実させ、ベルリン国際映画祭の金熊賞と批評家連盟賞をW受賞、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされるなど、世界各国の映画祭、映画ファンから熱狂をもって迎えられている。それは、ラテンアメリカの若く新しい才能の発見である。監督のクラウディア・リョサは1976年生まれ。彼女のおじには、映画監督のルイス・リョサ、2010年にノーベル文学賞を受賞したマリオ・バルガス=リョサがいる。彼は、ガルシア・マルケスとともに南米文学を代表する小説家であるが、1990年に大統領選挙にも出馬した政治家でもあり、つねに反独裁の活動を展開してきた。クラウディア・リョサ監督のペルー社会への眼差しは、こうした家族環境のもとで育まれたのだ。
心を閉ざし、祭りの喧噪のかたわらでいつもうわの空のヒロイン、ファウスタ。その傷はどこに由来するのか。彼女が背負う歴史について、まず知っておく必要がある。1964年、毛沢東主義を奉じた「センデロ・ルミノソ」(輝く道)という革命集団が結成された。彼らはその残虐な手口から「南米のポル・ポト」と呼ばれることになる。1980年代に武装闘争を開始すると、93年にアルベルト・フジモリの強権発動によって鎮圧されるまで、その冷酷なテロ活動でペルーを徹底的な混乱と恐怖に陥れた。劇中で語られる集団レイプもその戦略のひとつだった。ファウスタ役のマガリ・ソニエルが生まれた村も、実際に、彼らの暴虐の対象になったのだという。本作の撮影は、リマの南東に位置するマンチャイという貧民街をロケ地とするが、ここに暮らし、実際に映画にも登場する住民たちの多くは、1980年代にテロリストたちの魔の手から逃れてきた人々であるという。映画のなかではあえて詳しく語られていないが、画面に映る多くのことが、過去の傷跡を生々しくとどめているのだ。
母親とその世代が嘗めた辛酸を、ファウスタは母乳を通して受け取ったのだと信じている。乳による悲しみの伝染──「恐乳病」は、アンデス系先住民の間で伝わるフォークロアである。過去の痕跡はそれだけに留まるものではない。いまもなお、肌の白いスペイン系住民とアンデス系の先住民「ケチュア」の間には根深い溝がある。ファウスタと母の歌は、ケチュア語で歌われ、心をかよわす庭師・ノエとの会話もケチュア語でなされる。他の様々な地域の民俗音楽がそうであるように、土地に根ざし、生活の悲しみを語り継いできたその歌は、しかし、真珠と引き替えに裕福なピアニストに買い取られてしまう。その意味は大きい。
ファウスタの体に宿る歌と母乳、しかしそれは、悲しみを伝えるだけではない。それは同時に新しい生命を育むものでもある。葬儀にだされぬまま家に放置される母親の死骸のすぐそばでは、婚礼の祭りが延々と繰り広げられている。笑いがはじけ、陽気な歌と踊りを楽しむ人々。リョサ監督は、残酷さと笑い、悲しみと喜びのこの共存にこそ「ペルー的感性」があると述べている。「ペルーにおいては、生が死と共存しているのです」。この二面性が、『悲しみのミルク』の独特の映像世界を特徴付けるものである。また、撮影監督をホセ・ルイス・ゲリン監督作品『シルビアのいる街で』のナターシャ・ブレイアがつとめている。
苛酷で、ときにグロテスクでさえある世界は、同時に、醒めた笑いの感覚によって充たされる。おぞましいものが美しいものと隣り合う。人間の生をあざ笑う圧倒的な受難がある一方、それでも明日はやって来て生活が続くのだというあっけらかんとした感覚がある。これら相反するもの同士を衝突させることによって、リョサ監督の映像には強靱な詩の力が漲ることになるのだ。
ストーリー
衰弱した一人の女性が、ベッドの中で歌をうたっている。それは、ペルーに暴力が吹き荒れた時代、彼女が受けた壮絶な仕打ちを物語る歌だった。彼女は娘を身ごもっている最中、目の前で自分の夫を惨殺され、陵辱された。彼女は歌う──「あまりの苦しみにわたしは叫んだ、いっそのこと殺して欲しい、そして夫と一緒に埋めるがいい」と。その時の娘・ファウスタは美しく成長し、彼女もまた歌で、母親に優しく語りかける。しかし、母親は、苦しみの記憶と歌だけを娘に残し、この世を去る。
ファウスタと、そして彼女と暮らすおじ家族は、彼女が“恐乳病”であると信じて疑わない。それは、母親が体験した苦しみが母乳を通して子供に伝わるという病である。ファウスタがすぐ鼻血を出して倒れるのも、独りでは出歩けないのも、この病がもたらす恐怖の為だと信じている。“恐乳病”を否定する医者の忠告には耳を貸さず、ファウスタは、自分の体の奥にひっそりとじゃがいもを埋うずめていた。それは、「下劣な男たち」から身を守るための「盾」であると同時に、彼女を閉じ込める「ふた」でもあった。長い間閉じ込められたじゃがいもは発芽し、ファウスタの両足の間からその芽をのぞかせる。彼女はその度に、ハサミでその芽を切り取るのだった。
母親を故郷の村に埋葬しようと決めたファウスタは、村までの交通費を稼ぐため、街の裕福な女性ピアニストの屋敷でメイドの仕事を始める。たびたび襲ってくる恐怖心を歌で紛らわすファウスタ。結婚式請け負いを営むおじ家族の手伝いもしていたが、費用はなかなか貯まらない。一方、おじの一人娘の結婚も近付いていた。めでたい日に、家の中に遺体があることを嫌がるおじは、式の日までに母親の遺体を運び出せなければ、おじの手でこの地に埋葬すると、ファウスタを急かす。
ファウスタが仕える屋敷の主人であるピアニストは、演奏会を目前に控え、曲作りに関してスランプに陥っていた。そこへやってきた新しいメイドであるファウスタが口ずさむ歌に、彼女は強い関心を示す。ファウスタが一曲歌うごとに、ほどけたネックレスの真珠一粒を対価にし、一連揃った時点でそれをファウスタに与えると約束する。
他人に心を開けないファウスタの気持ちとは裏腹に、その美しさは人を引きつける。親戚の若者や屋敷の窓を修理に来た業者の若者が、ファウスタに言い寄ってくるようになった。今までにない他人との関わり合いに戸惑うファウスタ。しかしファウスタが家族以外で心を許せる唯一の人物は、屋敷に出入りする庭師のノエだった。父親のような年齢で、慎ましくもファウスタの苦悩を見抜くかのようなノエに、ファウスタは安心感を覚え始めていた。
約束のネックレスが揃うまで、残りの真珠が一粒となったとき、ピアニストの演奏会が行われた。そこで演奏された曲は、ファウスタが真珠と引き替えに彼女に歌って聴かせた曲だった。曲が好評だったことをファウスタは喜ぶが、ピアニストは、帰りの車からファウスタを降ろし、彼女を街中に置き去りにする。約束の真珠をもらうこともできず、悲嘆するファウスタ。後日、いとこの結婚式では、皆が未来への希望を祝う。式が終わった明け方、ひとりで駆けだしたファウスタは屋敷に忍び込み、真珠を取り戻そうとする。しかし、真珠を握りしめて引き返す途中、庭先で力尽き倒れてしまった。そこへやってきたノエが彼女を優しく抱き起こすと、ファウスタはノエの胸で泣きじゃくる。過去の記憶と、未来の予感が交差するなかで、ファウスタの心は、すでに解放を求め始めているのだった。
スタッフ
脚本・監督=クラウディア・リョサ
製作=アントニオ・チャバリアス、ホセ・マリア・モラレス、クラウディア・リョサ
撮影監督=ナターシャ・ブレイア(『シルビアのいる街で』)
美術監督=パトリシア・ブエノ、スサナ・トレス
編集=フランク・グティエレス
音楽=セルマ・ムタル
キャスト
マガリ・ソエル
スシ・サンチェス
エフライン・ソリス
マリノ・バリョン
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