−元始、女性は太陽であった−

2001年/日本/140分 配給:岩波ホール

2002年3月23日より岩波ホールにてロードショー公開

公開初日 2002/03/23

配給会社名 0253

公開日メモ 85歳でこの世を去るまで、その半生を数々の女性解放運動にささげた人。そんな平塚らいてうの生涯を記録したドキュメンタリーである。

解説

現在、様々な分野に進出し、いきいきと活躍する女性は多い。医療や法律などの専門分野をはじめ、女性の閣僚や、国際外交に活躍する人、オリンピック選手や、宇宙飛行士もいる。しかし、こうした状況になるまでには多くの女性たちの努力があった。
日本の女性運動の始まりとして、1911年の文芸誌『青鞜』の創刊と平塚らいてうの「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」に始まる発刊の辞は広く知られている。だが、その後の平塚らいてうについて知る人は少ないのではないか。
記録映画「−元始、女性は太陽であった− 平塚らいてうの生涯」は、女性の解放と世界の平和のために真摯に生きた彼女の生涯を、ドキュメンタリー映画の第一人者、羽田澄子監督が描いた作品である。
羽田監督は「誰でも知っているようで、詳しくは知られていない『平塚らいてう』。しかし、その名をきくと、すべての女性の心に灯りがともる。何故なのか。いったい平塚らいてうとは、どんな人だったのか。そんな私自身ももっていた疑問に応え、私自身が感じとったらいてうを表現しようとした」という。動くらいてうのフィルムがわずか14秒という困難な条件のなか、羽田監督は写真資料や多くの人々の証言を使い、まるでらいてうに会っているかのような映像に完成させた。

平塚らいてうは1886年(明治19年)エリート官僚の娘として東京に生まれた。映画は、日本の近代史とともに、らいてうの生涯を綴ってゆく。両親を説得して日本女子大家政学部に進み、卒業。人生観の探求に明けくれる中で禅と出会い、坐禅によって生きる道を拓く。作家・森田草平との心中未遂事件。1911年、25歳で友人達と女性だけの手による文芸誌『青鞜』を発刊し、晴れやかな人間宣言を行ったころ。奥村博と出会い、自らも母となった後の与謝野晶子との母性保護論争。日本で最初の女性運動団体・新婦人協会を結成し、女性の政治参加への第一歩を築いた時代。そして、第ニ次大戦をへて、女性の幸福は平和があってこそと、女性の権利、平和のために、終生発言をしつづけ、1971年(昭和46)に85歳で亡くなった。

記録映画「平塚らいてうの生涯」は、戦後のらいてうと歩みをともにした櫛田ふき(故人・元日本婦人団体連合会会長)と小林登美枝(平塚らいてうの会会長)両氏の提唱を受けて、製作委員会が組織され、製作資金を広く全国に呼びかけることで作られた。まさに多くの女性たちの思いが集まって完成した作品である。

ストーリー

スタッフ

監督:羽田澄子
製作:青木生子
撮影:宗田喜久松
録音:滝澤修
製作:自由工房

キャスト

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