映画として中上健次の後ろ姿を捉えられないだろうか

2000年ロカルノ国際映画祭出品作品 2001年ロッテルダム国際映画祭、チョンジュ映画祭、ペサロ映画祭 正式出品作品

2000年/日本映画/35mm/カラー/スタンダードサイズ/上映時間64分/ 配給:スローラーナー+ブランディッシュ

2002年04月25日よりDVD発売開始 2001年8月4日より大阪・扇町ミュージアムスクエアにてロードショー! 2001年8月11日よりユーロスペースにてロードショー! 名古屋シネマテークほかにて全国順次公開

公開初日 2001/08/11

配給会社名 0048/0097

公開日メモ 92年に急逝した小説家,中上健次。紀州に生まれたひとりの若い映画作家は、中上作品の舞台となり、今は失われてしまった"路地"を彷惶う。まるで、秋幸の亡霊のように。そこに、不意に中上自身が撮影した、かつての"路地"の映像が挿入される…。繁茂する緑を中上の文字を撮る田村正毅の映像が、坂本龍一と大友良英の音楽が、中上健次と共鳴し、ある「悲しみ」の感情を醸し出す。

解説


《映画として、中上健次の背中を捉えることはできないだろうか。》
一九九二年八月十二日、ひとりの小説家が故郷で死んだ。中上健次。享年四十六歳。初の戦後生まれの芥川賞作家。この時代を最も強く、正確に語り、われわれに思考の術を教えてくれた先駆者。急ぎ過ぎたその人生と『枯木灘』『地の果て 至上の時』『奇蹟』をはじめとする巨大な著作群は決して失われることのない輝きを放ち続けている。われわれはかって中上を読み、現在も読み続け、そのテクストの内部へ深く分け入り、多くの謎や問いに突き当たってきた。同時にその源となるものが”路地”という宇宙であり、”紀州”という宇宙だった。

昨年、その名の通り紀州に生まれた若い映画作家・井土紀州の作った『百年の絶唱』という作品の公開中、あるフィルムが同時に上映された。それは中上健次が、今にも失われようとする故郷の”路地”の最後の光景を撮影した16ミリフィルムだった。いや、そうではなかった。そのフィルムこそまぎれもなく、中上がどこにでもあるというその”路地”そのものだった。

映画は、ひとりの紀州に生まれた若い映画作家(井土紀州)が、現実の、そして小説の上にしか存在しない”路地”へと向かう「移動のドキュメント」となった。彼は車で移動し、松坂から荷坂峠を越え、熊野の巨木の下で、かつて路地があった場所で、新宮の海で、中上のテキストを紀州のイントネーション(と言っていいのだろうか?)で読み、彷徨し、途方に暮れる。彼は、まるで秋幸の亡霊のように、かつて”路地”があった場所を歩き回る。そして、不意に中上自身が撮影したかつての”路地”の映像が挿入される…。中上のテキストを読む井土の声と新宮の街のざわめきや森の音、中上健次が撮った”路地”と田村正毅によって撮影された現在の”路地”、熊野の繁茂する緑とカメラに収められた中上自身によって書かれた文字、坂本龍一と大友良英による音楽。それらは、互いに共鳴して、ある「悲しみ」の感情を醸し出す。そこには、かつて、人が生き、人々の”営み”があった。映画は、そのような普遍的なテーマにたどり着く。

『ユリイカ』が第53回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞とエキュメリック賞をW受賞した青山真治監督による、中上へのレクイエムに満ちた、音楽で言えばプライヴェート・カヴァーともいうべき作品。撮影を、その『ユリイカ』でもコンビを組んだ『火まつり』『萌の朱雀』の田村正毅、録音をやはり『ユリイカ』『ニッポン国古屋敷村』の菊池信之が担当している。

ストーリー



松阪の市街地を車が走っている。……タイトル「matsusaka-9th August,99」
停車して、運転手(井土紀州)が下りて自動販売機で煙草を買う。車に戻り、再び走り始める。周旋するように、街を巡り、やがて直線へ。

角を曲がるとすぐに大通りに出た。歩いている者はいなかった。秋幸はダンプカーのアクセルを踏み加速させた。大通りの信号を左に折れて国道に入った。その国道が山と海と川に四方を囲まれたこの市から外に通じるただひとつの道路だった。大阪へ出るにも、名古屋へ出るにもこの道より他はなかった。(『枯木灘』)

車が坂を昇り、荷阪トンネルへ入っていく。トンネルを出て、遠景に海を捉えるまで、車窓越しの光景が続く。

いくつものトンネル、峠を越えていく車

紀州——海と山に囲まれた紀伊半島の南部は「紀州」と呼ばれる。
中上健次は紀州・新宮に生れた。被差別部落出身の小説家である彼は、その場所を「路地」と呼び、生涯を通じてその「路地jを舞台とした小説を書き続けた。
1978年から始まった新宮市の地区改良事業によって、
「路地」は撤去され、81年までに約五十四戸の改善住宅に姿を変えた。消えていく「路地」の最期の姿を、中上健次は16ミリフィルムに記録した。

92年8月12日、中上健次逝去。
それから七回目の夏、紀州に生れ育った映画作家・井土紀州は失われた「路地」を求めて旅に出た。途中のドライブインでヒッチハイカーを拾い、請われるままに国道を離れて新鹿、二木島を過ぎると、須野より先に道はなかった。
今は、廃屋となった小学校の校舎に入る井土。ここは、海に山が迫り、その斜面に集落がへばりついている。

秋幸は海に入った。海は秋幸を包んだ。秋幸は沖へ向かった。波が来て、秋幸はその波を口を開けて飲んだ。海の塩が喉から胃の中に入り、自分が塩と撥ねる光の海そのものに溶ける気がした。空から落ちてくる日は透明だった。浄めたかった。自分がすべての種子とは関係なく、また自分も種子をつくりたくない。なにもかもと切れて、いまここに海のようにありたい。透明な日のようにありたかった。(『枯木灘』)

巨木。枝葉の隙間から射す陽光。蝉しぐれ。根方に腰を下ろした井土が、『岬』を読む。

人夫たちの声の他に、音はなかった。振り返るとそこから、市の全体が見渡せた。駅が、ちょうど真中にあった。駅から、十文字に道路がのびて人家がかたまっていた。商店街も見えた。駅の左脇に小高い丘があり、その下が姉の家のある路地になっていた。そこから、彼の家まで、線路に沿った道をたどり、田圃の道を行く。歩いて十分ほどの距離だった。彼の家から防風林まで、道が枝別れしながら一本ついている。防風林のすぐそばに墓地があった。そのならびに、古市の家がある。日を受けて白い屋根がみえる。防風林の向こうに浜が見えた。海が見えた。町は海にむかって開いたバケツの形をしていた。日が当っていた。彼は不思議に思った。万遍なく日が当っている。とどこおりなく、今、すべてが息をしている。こんな狭いところで、笑い、喜び、坤き、ののしり、蔑む。憎まれている人間も、また、平然としている。あの男が、いい例だった。あの男は、何人の女を泣かせただろう。何人の男から憎まれているだろう。いつも噂にのぼったあの男も、それから、文昭の産みの女親も、この狭いところで生きているのだ。偶然とする。息がつまった。彼は、ことごとくが、うっとうしかった。この土地が、山々と川に閉ざされ、海にも閉ざされていて、そこで人間が、虫のように、犬のように生きている。(「岬」)

熊野川沿いを走る道から橋へ……新宮へ入る車……山があり、川があり、海がある。そして新宮の街。舟で熊野川を河口へと下っていく井土。

そこから舟は川の流れに乗って川口にむかい、川口から一挙に何もかもを呑み込む海に出る。海はいつも広々とあった。秋幸が日がな一日、つるはしで掘り、シャベルですくう土方仕事の現場でふと顔を上げると海は見えた。秋幸が染まる日は、海から昇り、山に沈むのだった。明るく透明な日は、この土地では絶えず海の方にあった。(『枯木灘』)

路地へ。
井土は、高い場所に車を停め、新宮の街を見渡す。新宮駅前……商店街……線路。その向こう側にかつて「路地」はあった。練り歩く井土、失われた「路地」を求めて…。
不意に中上自身が撮影した「路地」の映像が、忍び込む。井土が、かつての「路地」を幻視するかのように。

半蔵が何の気なしに後を振り返ってみると、薄明るい月に浮かび上がった道に坊主頭の男がひとり、首をうなだれて立っている。驚いた半蔵が咄嵯に思ったのは、路地の誰かが物事を思いつめて首をくくっているという事だった。思いつめる暇があるなら女を口説いて抱いて良い目をするといつも半蔵は思うが、路地には自分で手をかけて死ぬ人間が多い。そのまま走ってでも山を越えようと思ったが、もし路地の者が本当に首を吊ったのなら縄をほどいてやらなければかわいそうだと心に決め、今一度、目をこらし、するとその首をうなだれた男は暗闇に吸い込まれるようにゆっくりと消えた。半蔵は狐につままれた気持ちのまま、今あってそこから消えた坊主頭の男がよく人が視たという幽霊なのか、と思い、幽霊なら誰のものかと考えた。(『千年の愉楽』「半蔵の烏」)

かつて市を東西に分けた臥龍山も今は跡形もない。

神倉神社への石段の途中に、井土が立って『地の果て 至上の時』を読む。中上が撮影した切り刻まれる臥龍山。そこに映っている草むら。

通りから角を曲がり、秋幸は立ち止まり思わず声を上げた。良一が「秋幸さん、初めて見るんかい」と訊く。
良一の物の言い方に腹立ったように秋幸は「初めてじゃよ。初めて眼にするんじゃ」と言う。柵につけた幾重もの有刺鉄線の光る向うを見た。写真より数等も実際に見る路地跡は生なましくむごたらしく、いつの間にか生え茂った雑草が風を受け光の波を受け美しかった。路地だけでなく山も消えていた。眼を転じると、路地から道路一つへだてた向うにモンの店や秋幸の異母妹に当たるさと子が働いていた店のあった「新地」があった。だがそれらも、その向うの製材工場もさらにバスの車庫も消えていた。風が渡ってくる度に路地跡を中心に生え茂った雑草が身を起こしてうごめき、山の際に流れ者らが住みつき蓮池を埋め立ててさらに多くの流れ者が住みついて出来た路地が夢そのものであったように音を立てた。(「地の果て 至上の時』)

夏芙蓉の花。

丹鶴ダンス教室。
ここは、昔ダンスホールだった。古いタンゴがかかっている。

かつての「路地」。家と家の間を電車が動いている。洗濯物が揺れている。駄菓子屋。壁の落書き。そこで、生きる人々。

池の周りも山も炎で焼いて開いて、それで小屋が二つに増え三つに増え、路地がじょじょに出来ていく。路地開闢のアホな人の血に、他から渡ってきた者の血が混じり合い、最後には路地は隙間なく家が立ち、終に池をさえ埋め立てて住むような場所になった。そこを人一人が通れるほどの道、二人が擦れ違える道、荷車が通れる道、涼み台を置き・いつも誰かが座ってある事ない事をしゃべっていた「天地の辻」と言われた場所に集まる三つの道が網の目のように走る。車の中にいて、耳を聾する音を聞きながら老婆らは、そのアホな人から始まった路地が道の鬱血のようなところだったと思った。鬱血した道であろうと、太い流れのよい動脈であろうと、道であることに変りはない。道の果てはどうなっているのだろうかと考えた。(『日輪の翼』)

きょうだい心中の歌が忍び込む…。

「路地」があった場所を井土が歩く。そこは、どこにでもある住宅地である。かつての「路地」。子供が日傘をくるくる回しながら走り回り、細い坂道の脇に布団が干され、人が歩き、自転車で行き交う。
そこには”営み”があった…。

細い道の向こうに一寸亭の看板が見える。線路脇で井土が停んでいる。

イクオシスの電報を受け取ったスガタニのトシが、半信半疑のまま天王寺から夜行に乗り新宮の駅に着くと、同じ汽車からどこか見覚えのあるような顔の痩せた女の子が降りて来る。その女の子と駅の改札口に歩くと、水飲み場にしゃがみ込んで娘が大声を出して泣いている。女の子はその娘の姿を見るや、突然、両手に持った土産の岩おこしを放り棄て、何が起こったのかと驚くような声で泣き始め、駆け出す。駆け寄った女の子を見て娘は、「死んだんやァ」と立ち抱え、「ほんまかん」と泣く女の子に「ほんまやァ、ほんまやァ」と答える。スガタニのトシは抱え合って泣く二人に、「ナカモトのイクオの妹か?」と訊いた。娘の方がスガタニのトシを見て、「そうやァ、死んだんやァ」と言う。スガタニのトシは誰かが魂胆あって自分を新宮に呼ぶ為に仕組んだものでもないし、悪戯でもない、一つ蒲団に身を寄せ合い腹こすれ合って寝た事もあった弟のような中本の四人の一人、イクオが本当に死んだのだと知った。一緒に酒をつきあうおしもおされもせぬ極道に成長したスガタニのトシですら涙流すのに、種になる前から見守り続けたトモノオジが、何故、涙なしに一滴の酒すら喉に入れられよ。(『奇蹟』)

中上によって書かれた文字。『奇蹟』の原稿である。枠の外に「朋輩のぬくもり」書かれているのが見える。びっしりと集計用紙に書き込まれた文字。手書きの原稿を、ゆっくりとめくっていく井土。「路地」は、見いだされた。

神倉神社の大岩に座った井土。木々の間に見え隠れする新宮の街。

ところが二十九の今、フサの五人の子の一人として路地に生まれた事その最初から一切が架空か幻だったように路地は消え、山は消え、土地の至るところで地表がめくられ赤土が見えている。消す事の出来ない物があらわれたと秋幸は思った。その赤土の上を良一はわざと通り、ジープが撥ねるのが面白いといきさつきまでの事を忘れたように声をあげる。天井の幌を張った鉄パイプに後の席の若い衆が頭を打ちつけて痛みに呻くのを耳にして、「幾つじゃ?」と訊く。若い衆は二十七としゃがれ声で無愛想に答える。ヨシ兄が路地跡でテントを張っているかもしれないと通りにジープを停めさせて秋幸は降りた。歩いて角を曲がる。そこはただ生え出た草が日を受けているだけだった。一つ気持ちをはぐらかされたように感じた。日を受けて幻のように光る草むらを背にして通りの方へ戻り、一瞬、その草が昔、土方をしながら眼にした時のものだった気がして、秋幸の体の中に音楽のように鳴るものがある。(『地の果て 至上の時』)

墓……タイトル「Shingu-12th August,99」
し尿処理場前の坂道を車が来て停まる。……井土が下りて、墓地へ。中上の墓では、静かに、線香の煙が立ち上っている。
盆踊り。
宵闇の中、老いも若きもが踊りに興じている。
海岸。
海が拡がる。
日が跳ねる。
砂浜の流木に腰掛けている井土。

秋幸は言い、ふと路地跡の一面の枯草がよみがえり、息苦しくなる。路地の跡地に住みついた浮浪者が追い払われ、草が刈られ元の更地にもどり、開発プロジェクトの予定通りショッピングセンターが建てられるのは路地跡の中空を支え持つ浜村龍造が死に、ヨシ兄が意識不明の今、自明の事だった。今、はっきりと路地は消える。親と子をつないでいたきずなも母や、姉らと生き残ったただ一人の男子とのきずなも消える。(『地の果て 至上の時』)

枯木灘。
潮岬の突端から望むその断崖。
日が沈む。
音楽が、静かに鳴っている。
潮騒が響いている…。

スタッフ

小説/「路地」映像:中上健次
監督・構成:青山真治
旅・朗読:井土紀州
歌:楠本たけ、田畑米子
16mm撮影:向井隆
船:荘司準治
撮影:田村正毅
録音:菊池信之
編集:山本亜子
プロデューサー:越川道夫、佐藤公美
撮影助手:池内義浩、今井孝博
制作担当:吉岡文平、藤田雄己
ネガ編集:高橋辰夫
ダビング:上野未来
音響助手:榎本泰宗
整音助手:高坂隆
タイミング:石坂英樹
オプチカル:木内育夫

特別協力:中上かすみ、久堀光世、向井隆

撮影協力:新宮市役所 鈴木俊朗、岸芳男
     熊野大学 森本祐司
     新宮市人権センター 岩本日出幸
     新宮市立図書館 山崎泰
     丹鶴ダンス教室 新宮市立王子小学校
熊野速玉神社 新宮市王子公民館
紀宝町役場 新宮市教育委員会

協力:Sony/PCL 映像サービス、KODAK アオイスタジオ、  
   ACTIVE CINE CLUB、モリデンキ マリンポスト
   オリオンプレス 樋口泰人(boid)

朗読作品:「岬」「枯木灘」「千年の愉楽」「地の果て至上の時」
     「日輪の翼」「奇蹟」

音楽:『Filament2-5』大友良英+Sachiko M+ギュンター・ミューラー
   『lnterrogations』GROUND ZERO remixed byストック、
   ハウゼン&ウォークマン、
   『A Flower ls Not A Flower』『Parolibre』坂本龍一
製作・配給:SLOW LEARNER、BRANDISH

キャスト

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