追憶
京都国際映画祭・オープニングプレミア上映
2015年/日本/カラー/76分/ 配給:太秦
2016年11月5日公開 2015年10月15日、京都国際映画祭・オープニングプレミア上映
©2015「追憶」製作委員会
公開初日 2015/10/15
配給会社名 1689
解説
第二次世界大戦終結から70年を迎えた2015年4月9日、天皇・皇后両陛下がパラオ共和国ペリリュー島の慰霊碑で戦没者を追悼された。日本軍約1万人が犠牲になったペリリュー島の最南端に建てられた「西太平洋戦没者の碑」に、日本から持参された白菊の花束を手向け、深々と一礼された後、海の先に望むアンガウル島にも拝礼された。
1944年9月15日から11月24日、ペリリュー島では70日に及ぶ激戦の末、日本軍、米国軍合せて
1万を超す命がこの地に散った。余りにも悲惨で苛烈であったが故に、日米双方で語られる事がなく忘れられた戦い。
現代に残された資料映像、多角的な証言から綴る、ペリリュー島の「追憶」——
本作は、米国防総省、米海兵隊歴史部、米国立公文書館に保存されている膨大な映像と、日本の自衛隊第8師団、NHKに残る貴重な資料により、ペリリュー島の真実が描き出される。これほどまでの膨大な日米双方からの資料映像が見られる作品はいままでに前例がなく、歴史的にも大変意味のある作品となっている。かつて血に染まった海岸線は美しい姿を取り戻したが、弾薬、戦車、司令部跡、島の至る所には戦争の痕跡が時代を越えて鎮座している。資料映像と現代のペリリュー島の風景で綴る映像により、70日間に及ぶペリリュー島の戦いの記憶が蘇る。
ペリリュー島の戦いを生き抜いた元日本兵、アメリカの元海兵隊兵士、島民の貴重なインタビューにより、そこで、その時、何が起き、「指揮官は、兵士は、民間人は、何を思ったか」と言う視点を通して日米に甚大な惨劇を生んだ戦場の島を見つめる。
ペリリュー島に散った玉砕戦で全軍を指揮した中川大佐が、妻に宛てた手紙。
当時、日本軍守備隊を指揮した中川州男大佐は、「戦いには、負けると判っていても敗北が決するまで戦い続けなければならない戦がある。」と当時多くの戦場で行われた日本軍の“バンザイ玉砕”を最後まで認めなかった。無骨な武人であった中川大佐が戦陣から妻に宛てた手紙は、過酷な戦場に於いても家族を思う優しさが行間から溢れている。本作の原案となった「愛の手紙」〜ペリリュー島玉砕〜中川州男の生涯(升本喜年著)は、中川大佐の手紙を元にペリリュー島の玉砕を綴った、現代を生きる私たちが読むべき至極の一冊となっている。
美輪明宏の語りと、小林研一郎の鎮魂のピアノが美しきペリリュー島に木霊する——
知的障害のある人たちがスポーツを通じ社会参加を目指すスペシャルオリンピックスを題材にしたドキュメンタリー映画『エイブル』『ホストタウン』『ビリーブ』そして『幸せの太鼓を響かせて~INCLUSION~』等、社会の根底を見据える優しい眼差しと共に、社会問題を提言するドキュメンタリー作品を多く手掛ける小栗謙一が監督。製作は日本映画界を代表する映画プロデューサーの奥山和由。炎のコバケンこと小林研一郎が音楽を担当。そして被爆体験、戦争体験を語り続けている美輪明宏の語りが、美しきペリリュー島に木霊する。
ストーリー
1944年11月、南太平洋パラオ諸島に浮かぶ美しき小さな島、ペリリューの壮絶な戦いで
全軍を指揮した中川州男大佐の最後の時を、愛妻に宛てた手紙とともに描く—
太平洋戦争末期、日本軍と米国軍による凄まじい戦いの舞台となったペリリュー島。第一次世界大戦まではドイツの植民地であり、ヴェルサイユ条約により日本の統治領となった。太平洋戦争が始まる頃には島民よりも多い日本人が移住していた。
「戦争が終わったから、もう何もない。日本人が帰った時は悲しかった。
友達だったから。私たち、友達だったから…」
ローズ・テロイ・シレスさん(96歳)は、戦争が始まった時、日本人に島から避難するよう言われ島を離れた。戦争が終わり戻ってきた時、自分が生まれ育った美しい島と日本人は姿を消していた。当時の日本人と島民の温かな交流が戦争によって引き裂かれていく様子を、日本語を交えながら語っていく。
人は、人を殺した事がないのが当たり前です。戦場の大地にいる時、兵士たちは
自分を騙すしかないのです。そうでなければ、死は自分に襲いかかるのですから。
約1万人がほぼ全滅した日本軍守備隊の中で、1947年まで抗戦して生還した隊員は34名。壮絶な戦いから奇跡の生還を果たした1人である土田喜代一さん(95歳)は、家族と共にペリリュー島を訪れる。ペリリュー島を指揮した中川州男大佐の墓と向き合う土田さんの周りには、荘厳な沈黙が支配していた。
「ペリリュー島攻撃に入った1944年9月15日、朝食はステーキと卵でした。」
ブラズウェル・ディーンさん(90歳)は、当時米国第一海兵隊の一等兵だった。ペリリュー島上陸後、日本兵たちは倒しても倒しても幾層にも重なった洞窟から現れてくる様子に茫然としたという。
米国第一海兵師団の少尉だったビル・カンバさん(94歳)は、蛸壺に潜み戦車の前に飛び出すと共に胸に抱いた爆弾と共に散った日本兵を目のあたりにした。
地獄のような暑さ、腐敗臭で息は詰まる沼地、血に染まった海岸…、ディーンさん、ビルさんの証言と資料映像により当時の情景が鮮明に浮かび上がっていく。
「サクラ、サクラ——」それは、玉砕を意味する打電だった。
日本軍守備隊を指揮した中川州男大佐は、それまで日本軍が実施してきた「バンザイ突撃」と言われる総攻撃の戦法を改め、徹底持久戦法の方針を打ち立てた。それによって当時米軍が「3日で終わる」と考えていた戦闘は壮絶なる戦いへと突入していったのだった。
当時を回想する誰もが「残忍な島」だったと言うほどの戦いの中、中川大佐は愛妻への手紙を綴っている。自分に迫る死を悟らせず、妻を思いやる気持ちに溢れた手紙から、過酷な状況下で日本軍の指揮していった中川大佐の武人としての人柄がにじみ出ている。
「玉砕突撃するよりも、最後の一兵になるまで戦い抜かねばならん」と、耐え続けた中川大佐だったが、「サクラ、サクラ——」の打電と共に、遺書も残さずに中川大佐は最後の時を迎えた。
米国軍がペリリュー島に上陸してから、70日目の事だった。
約1万人がほぼ全滅した同守備隊の中で、1947年まで抗戦して生還した隊員34名は、終戦を知らぬまま、約1年8か月もの間洞窟に身を潜め、戦いを続けていたのである。
スタッフ
製作:奥山和由
監督:小栗謙一
語り:美輪明宏
ピアノ:小林研一郎
原作:升本喜年「愛の手紙」〜ペリリュー島玉砕〜中川州男の生涯(熊本日日新聞社刊)
エグゼクティブプロデューサー:片岡秀介
ラインプロデューサー:花井ひろみ
米国担当プロデューサー:池原麻里子
照明:小西俊雄
録音:Shiromi
ペリリュー島コーディネーター:井口亮
ヘアメイク・着付け:天尾久美子
衣装:小澤篤子
本編集:梶晃生
整音:比嘉努
音楽整音:大野映彦
音楽効果:岩波昌志/森山貴之
わらべうた歌唱:遠藤美宇/遠藤久美子
CG:藤野勝也
ナレーター:朝コータロー
映像協力:米国防総省/米海兵隊歴史部/米国立公文書館/NHK
資料提供:陸上自衛隊第8師団/ペリリュー第二次世界大戦記念博物館/星田友子/中川澄子/中川則子/大谷清明/でん田忠子/土田喜代一/坂梨淑子/後藤弘子/篠原直人/株式会社池宮商会(太平洋戦争写真史)
撮影協力:水戸二連帯ペリリュー島慰霊会/影山幸雄/白方勝彦
プロダクション:DIRECTORS SYSTEM 企画制作プロダクション:チームオクヤマ 制作:KATSU-do
配給:太秦 製作:吉本興業
キャスト
土田喜代一
升本喜年
Bill Cumbaa
Braswel Deen
Rose Telloi Siles
大谷清明
大谷慶明
土田世里子
坂梨淑子
後藤弘子
でん田忠子
前田比良聖(武道和良久)
伊藤令子
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