石川文洋を旅する
沖縄、ベトナム、そして沖縄—— ベトナム戦争従軍取材から 50 年
2014年/日本/カラー/109分 配給:東風
2014年6 月 21 日(土)、東京・ポレポレ東中野、那覇・桜坂劇場ほか全国順次公開
(C)大宮映像製作所
公開初日 2014/06/21
配給会社名 1094
解説
戦争と平和、時代と人生。
青年は、いかにして戦場カメラマン石川文洋となったのか?
石川文洋さんは 1938 年沖縄に生まれた。世界一周無銭旅行を夢みて日本を脱出。64 年から南ベトナム政府軍・米軍に従軍し、戦場カメラマンとしてベトナム戦争を世界に伝えた。
そして 68 年末に帰国してから今日にいたるまで、ふるさと沖縄の姿を記録し続けている。
本作は、75 歳になった文洋さんとともにベトナムと沖縄を旅し、その生立ちと青春とを見つめる。切り売りした命がけのネガフィルム、サイゴンの下宿、アオザイを着たスチュワーデスの神秘的な魅力、解放戦線兵士が眠る烈士墓地、幾世代にも及ぶ枯葉剤の影響。そしていまなお沖縄に張り巡らされるフェンス、配備されたばかりのオスプレイ。
アメリカへの憧れと失望。
従軍取材中、文洋さんはアメリカの市民権を求めて米兵となった沖縄出身の青年と出会う。
二人は立場を超えて、本土の人にはわかってもらえない沖縄人の葛藤と切なさを語り合った。
文洋さん自身、“侵している側”の米軍に同行しての取材は複雑な感情を伴うものだったと言う。しかし、かつて日本人が撮った沖縄戦の写真は一枚も無く、すべて米軍が記録したものだった。それでも沖縄戦がどうであったかがわかる。だから、ベトナム戦争を取材したネガは個人のものではなく世界の財産なのだと。文洋さんはいつも穏やかに訥々と話す。
2014 年は文洋さんが従軍取材をはじめてから 50 年の節目の年となる。その軌跡をたどるこの旅は、今という時代を生きる私たちを深く静かな思索へといざなっていく。
ストーリー
もし、私が外にいて、機関銃を持っていたら狂ったように撃ち続けたのではないかと思う。そうすることが恐怖から逃れる唯一の方法ではなかったろうか。
ファインダーを覗く気持ちと、銃の引き金を聞く気持ちとは、恐怖から逃れるという意味では共通していた。
石川文洋のベトナム戦争取材の最初の著作「ベトナム最前線 カメラ・ルポ 戦争と兵士と民衆」にはこう記されている。石川はベトナム戦争中アメリカ軍に従軍し、武器を持つこともなく、「侵している側」から戦争を取材し続けた。
2013 年冬、石川が長野県諏訪市の自宅で雪かきをしている。1938 年(昭和 13 年)に生まれてから 4歳で本土に移住するまで、沖縄で過ごした。石川が覚えている沖縄は、まだ太平洋戦争の影響の及ばない、穏やかな南国の風景。父は小説家で、沖縄で執筆や芝居の演出をしたりしていた。石川に赤いランドセルを買ってくるような変わった父だった。4 歳で本土に移ってからは千葉県船橋市で育った。
石川は自身の写真集「写真記録 ベトナム戦争」を紐解く。
ある時石川は、ひとつの村に攻め込む作戦のへリコプターに乗り込んだ。各部隊に分かれて部落を包囲するときが、解放戦線の反撃を恐れて最も緊張する瞬間だ。手榴弾を投げ込み、死体を引きずり出す米兵たち。その中に、ひとり血まみれで命を取り留めた男がいた。のちの調べでノさんと分かったその男は、衛生兵の手当てを受け、捕虜として基地へ運ばれた。ノさんの子供を抱いた妻が連れて行ってくれと頼んだが、聞き入れられず部落へ返された。村では農民たちが家の中で怯えていた。一人の少女が、じっとこちらを見返す…。
戦場でシャッターをきるとき、そこに躊躇はない。
少女の写真を前に石川は言う。
「こういうことはベトナムでは何千何万か所で起こっている、そのほんのひとつなんですよね」
千葉に住んでいた子供の頃、空襲にも遭わず、戦争の思い出と言えば貧乏をしてお腹を空かせていたことだった。それからもうひとつ、沖縄に残っていた兄が、学童疎開として引き上げてきたこと。その疎開船は米軍に撃ち沈められた対馬丸の一つ後の船だったそうだ。
対馬丸は 1944(昭和 19)年 8 月 21 日の夕方、学童と教員、一般人など 1788 人の疎開者を乗せて那覇港を出た。現在沖縄県大宜味村に住む平良啓子さん(78)は 9 歳の時、対馬丸に乗船した。本土で雪が見てみたいと旅行気分だった。しかし翌 22 日の夜 10 時過ぎ、米軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受ける。
現在わかっているだけでも犠牲者は 1482 人、そのうち 780 人が学童だった。当時詳細な調査が行われなかったため、正確な犠牲者数は分かっていない。
海に投げ出された平良さんがやっとの思いで竹の筏に辿り着くと、何十人もがこの一枚の筏を奪い合っていた。筏にしがみつく平良さんの足を掴んで水中に引きずり込もうとする男性もいた。結局その筏に乗ることができたのは 10 人だったと平良さんは言う。しかし筏の上で、平良さんに向かって目を見開いたまま、お婆さんが一人息絶えた。死んでいるとわからず、お婆さんが海に落ちないようにつかみ続ける平良さんに、まわりの大人が手を放せと迫る。
海にのまれたお婆さんは浮きつ沈みつしながら遠ざかっていった。平良さんは手を合わせて見送ったその光景が今も頭から離れないと言う。対馬丸の撃沈は生存者にも箝口令が敷かれ、遺された沖縄の家族にも知らされることはなかった。
沖縄へ戻った生存者を待ち受けていたのは、米軍の沖縄上陸作戦だった。
「お前の故郷、玉砕したぞ」と言われたことを、石川はとてもよく覚えていると言う。玉砕の意味は分からなかったが、子供心に沖縄に大変なことが起こったと理解できた。しかし今、石川は言う。
「沖縄戦を経験してこなかったというのは私の中でちょっと引け目になっている。本土に来て沖縄戦を経験しなかったからよかったとは、決して思ってない」
沖縄での出来事を肌身で体験していれば、もっと戦争に対する考えが変わっていたのではないかと、いまも考えている。
ベトナムでの従軍取材中、これまで経験したなかで最も凄まじい地獄絵図の中、高揚した石川は、傷ついた農婦が手を合わせて何か言おうとしているのを見て、泣きたくなった。
もう共産主義でも資本主義でもなんでもい、早く戦争をやめてくれと叫びたくなる。田やはたけで働く農民に主義もヘチマもあるか。彼らにあるのは黙々と田や畑で働く喜びだけだ。
石川は毎年、高校時代の親友たちと集まり杯を交わす。今年は石川の住む諏訪に皆が集まった。石川が両国高校定時制に入学したのは 1953(昭和 28)年。
昼間は毎日新聞社で給仕として働いた。当時は東京都の高校生の約 3 分の 1 が定時制に通っていたという時代。石川の仲間も中小企業で働く生徒が多く、日本で起こっていた問題に関心を持っていた。自衛隊の発足、北富士演習場でのアメリカ軍の実弾演習、砂川の基地闘争…。1955 年(昭和 30 年)に始まった米軍立川基地の拡張に対する反対闘争は激しさを増していた。全国から集まった支援者の中には沖縄の人々もおり、実体験を訴えていた。
スタッフ
監督:大宮浩一
企画:大宮浩一
製作:大宮浩一
撮影:山内大堂、加藤孝信
編集:遠山慎二
音響デザイン:石垣哲
キャスト
石川文洋
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