2011年/日本/カラー/デジタル/89分/ 配給:ビターズ・エンド

2012年05月25日よりDVDリリース 2011年10月1日(土)より東京・新宿ピカデリーほかで公開

(C)2011「エンディングノート」製作委員会

公開初日 2011/10/01

配給会社名 0071

解説


高度経済成長期に熱血営業マンとして駆け抜けた「段取り命!」のサラリーマン。
ガンという、ふいに訪れた人生の誤算をきっかけに、彼が手がけた最期のプロジェクトは「自らの死の段取り」だった。
2009年、東京。熱血営業マンとして高度経済成長期に会社を支え駆け抜けた「段取り命!」のサラリーマン・砂田知昭。67歳の時、仕事も一段落し40年以上勤めた会社を退職、第二の人生を歩み始めた矢先に、毎年受けていた健康診断で胃ガンが発見。すでにステージ4まで進んでいた。残される家族のため、そして人生の総括のために、彼が最後のプロジェクトとして課したのは「自らの死の段取り」と、その集大成とも言える“エンディングノート”の作成だった。やがてガン発覚から半年後、急に訪れた最期。果たして彼は人生最後の一大プロジェクトを無事に成し遂げることができたのか?そして残された家族は—。
父の遺した“エンディングノート”が開かれる、その時まで。
人間味あふれる父とその姿を見守る家族を娘が描いた、感動のエンターテインメント・ドキュメンタリー。
病と向き合い、最後の日まで前向きに生きようとする父と家族の姿を、娘は記録していた。接待ゴルフ、熟年離婚の危機、孫たちとの交流、入院生活、教会の下見、家族旅行、そして人生最期の時までも。膨大な映像記録から「家族の生と死」という深淵なテーマを軽快なタッチで描き出したのは、大学在学中よりドキュメンタリーを学び、卒業後はフリーの監督助手として是枝裕和らの映画制作に従事、本作が初監督となる砂田麻美。父親の死の段取りを見守り続ける家族の絆をユーモアと哀愁を交えながら見事に描き出している。プロデュースに、『誰も知らない』『奇跡』など映画監督として第一線を走り続ける是枝裕和。そして主題歌「天国さん」はハナレグミの新曲、劇中音楽全編もハナレグミが手掛け、温かな余韻を残している。

ストーリー

<はじめに>
私の名前は砂田知昭。享年69になります。毎年欠かさず受けていた検診で胃ガンが発見されたのは会社を引退して2年目の2009年5月のこと、発見時にはすでに手術が丌可能な状態でございました。
何よりも「段取り」を重視してきた元熱血営業マンの私は、何事も事実を正確に把握し、自らの手で物事を進行したいという性分です。そんな気質が今更抜けるはずもなく、死に至るまでの段取りは、私にとって人生最後の一大プロジェクトとなったのでございます。ガン告知の後、まず最初に取り組んだのは“エンディングノート”と呼ばれるマニュアル作りでございました。“エンディングノート”とは簡単に申しますと遺書なのですが、遺書よりはフランクで公的な効力を持たない家族への覚書のようなものです。自分の人生をきちんとデッサンしておかないと、残された家族は困るでしょうから…。

<神父を訪ねる>
自らの死について私が望む唯一のことは、仏教徒である父が眠る墓に一緒に入りたいということです。そして葬儀は、家族と近親者のみで行ってほしいと考えております。そんな中、父の眠る墓は宗教を問わないと知った私は、かつて娘の送り迎えで目にしていた教会でお世話になることはできないものかと、とある教会にご相談に伺ったのです。これから信心深く生きようという発想ではないのですが、気持ちが安らかになれる場所はどこがいいだろうと考えた上での選択でした。

<気合いを入れて孫と遊ぶ>
ところで私が結婚しましたのは昭和43年、翌年長女が、2年後に長男が誕生し、全て「完了」の予定でしたが、私の段取り丌足により、その7年後、次女(監督)が誕生。図らずも3人の親となりました。
私が今最も強い関心を寄せておりますのは、嫁に行かないどころか何故だか私をカメラで追い回す「次女」ではなく、長男の転勤に伴いアメリカに住む孫たちの存在でございます。秋には3番目の孫も生まれる予定になっております。ガン告知の翌月、夏休みを利用して日本にやって来てくれたこの孫たちの前で、落ち込んでいるわけにはいかず、孫達と濃密な時間を過ごしました。
クリスマスのアメリカ行きを目標に掲げ、早速都内の総合病院で抗がん剤の治療を始めた私ですが、子供たちはこの抗がん剤投不に何とも歯切れの悪い表情を見せるのでした。代替医療と呼ばれる数々の治療についても検討すべきだというのが彼らの意見でしたが、私は目の前の医者を信じると、心に決めていたのであります。

<自民党以外に投票してみる>
「政権交代」の声が叫ばれる8月、親子3人で選挙に向かいました。娘は車の中でカメラをむけながら私が票を入れる政党を尋ねて来ましたが、親子といえども教えるわけにはまいりません。(うっかり少しだけ口をすべらせましたが。)
ところで、後部座席で笑みを浮かべる中年女性、こちらは妻の淳子でございます。
妻は私のガンが発覚して以来、どこか怒っているようでした。娘の話から推測すると、仕事だ、接待ゴルフだとほとんど家におらず、やっと自由な時間ができたと思ったらガンになって先に死んでいく・・・そんな自分勝手なことがあるか、というのが妻の言い分のようでありました。
妻との歴史はそうシンプルではございません。結婚当初はままごとのように楽しくやっておりましたが、子供が3人に増え、私も昇進を重ねると互いにストレスがたまり、喧嘩の量も質も次第にエスカレートしていったのです。それでもなんとか数十年をやり過ごしてまいりましたが、サラリーマン生活を終えると転勤で空き家になった息子の家の管理人という名目で、妻とは別々に暮らし週末だけ落ち合う、いわゆる週末婚をスタートしました。仲間と旅行に行ったり、大学の社会人講座に通ったり、40年ぶりに一人暮らしを満喫しているうちに、なんということでしょう。妻との間に、今までにない穏やかな時間を感じるようになったのです。

<最後の家族旅行>
ガン告知から5カ月目の11月。三重県伊勢志摩へ気分転換の家族旅行に出かけることにしました。この旅の同行者には名古屋で一人暮らしをする94歳の母もおります。海女のショーを観たり、最後にもう一度食べたかったアワビステーキを堪能したり、ただ遊んでばかりの旅に見えるかもしれませんが、実はそうではございません。接待ゴルフの目的がゴルフではないように、この旅にはとある重要な目的が控えておりました。それは母から洗礼を受けること、即ち教会葬の許諾を徔ること。しかし予想に反して母への根回しはあっさり完了。「一緒に死ねれば楽なのにね」と二人で笑い合いました。

<死の準備>
旅から戻ると、東京の季節は秋から冬に変わろうとしていました。
わたしと、家族に押し寄せてくる別れの予感。私は妻とガンをテーマにしたテレビ番組を見ながら、ふと思います。私は死ねるのだろうか、上手に、死ねるのだろうかと。
そんな想いを口には出さず、妻と葬式会場の下見に出向きました。妻と式場の下見に来るのは結婚式以来の事。少々早まり過ぎだと思われそうですが、そんなことはございません。段取っても段取っても必ず何かが起こるのが本番というもの、完璧すぎるということはないのです。
子ども達は、あいかわらず私の治療に好き勝手申してきます。それでも私は、痴呆症を煩った後も最後まで医者として死んで行った父親の姿を思い浮かべ、医師の診察へと通うのであります。

<最後の晩餐>
体調が優れずに検査入院となった12月、私の肝臓は、おおよそ3倍くらいに肥大化しておりました。原因は癌が増殖したため。今までの治療の効果がなかったのか、効果はあったが癌のスピードが速かったと考えるか。いずれにしてもトータルでは負けていたようです。医師から家族へは「年を越せるか越せないか」と伝えられたようでした。そんな事を知る由もない私は、クリスマス直前に一旦自宅へと帰宅。
すると、何事にも計画的な息子が、生まれたばかりの孫達を連れ一家で突然日本にやってきたのです。
孫と語らい、妻との思い出話(主には、40年前東京駅での約束を無視されたという恨み)に花を咲かせ、古
い家族のビデオを見て過ごしたクリスマスイブ。
しかし、翌25日体調が急変したわたくしは、それでも家に帰したいという妻の想いを感じ取りながらも、最後の入院とあいなりました。

<最後の段取り>
入院翌日、起き上がることも声を出す事もできなくなっていた私を動かしたのは、孫達の声でした。
彼女たちに最後の別れを告げ、遠方の母に電話をし、学生時代からの親友とはいつものように冗談を言い合うと、息子へ最後の段取り確認まで矢継ぎ早に物事は進んで行きます。家族から葬儀について次から次へと確認次項が飛び交うものですから、私思わずこう口にしてしまいました。
「わかんなくなったら、携帯に電話下さい」と。
段取りの終盤で、これまで私なりに準備を重ねてきた洗礼を授かる時がやって参りました。しかしながらベッドの前に現れたのは、あろうことか私をカメラで追いまわしておりました次女だったのでございます。洗礼名は適当に決められたかもしれません。とにかく随分あっさりと、 “パウロ”となった次第であります。

<妻に(初めて)愛してると言う>
「これからいいところに行く」と私が思わず口にすると、「それはどんな所なの?」と家族が次から次へと質問してきます。しかし私はきっぱり答えました。「それはちょっと、教えられない」と。
そして入院三日目、結婚以来初めて妻に「愛している」と伝えました。
「一緒に行きたい」と、妻は言いました。「もっと大事にしてあげればよかった」とも。
こんな話、恥ずかしくて決して子供たちには聞かせるわけにはいかないのですが…。

<最期の日>
入院5日目。そろそろ失礼しなければなりません。営業マンは引き際が肝心です。
もう一度孫に会うために、ここまでがんばって参りました。
ありがとうございました。幸せです。
もう一度、やりなおします。

<エンディングノート>
妻と子ども達は、私が残したノートに基づいて迷うことなく葬儀を執り行ってくれました。
やがて私の身体は、教会から少しづつ遠ざかっていきます。
皆が手をあわせる姿に見送られて、東京の街をゆっくりと進んでいくうちに、先ほどから好き勝手しゃべっている娘の声が聞こえてきました。
「それで今、どこにいるの?」と。
だからそれは言ったはずです。それはちょっと…教えられないと。

スタッフ

監督:砂田麻美
製作・プロデューサー:是枝裕和
主題歌:ハナレグミ「天国さん」(SPEEDSTAR RECORDS)
音楽:ハナレグミ
製作:バンダイビジュアル

キャスト

砂田知昭

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