原題:FEMMES EN MIROIR/WOMEN IN MIRROR

第55回カンヌ国際映画祭特別招待作品

2002年/日本/35mm/ビスタサイズ/カラー/129分/ドルビーSR 配給:グルーブコーポレーション

2004年12月22日よりDVD発売開始 2003年4月26日より大阪・第七芸術劇場にてロードショー公開 2003年4月5日より東京都写真美術館ホールにてロードショー公開 2003年3月15日より広島サロンシネマにて先行ロードショー公開

公開初日 2003/04/05

配給会社名 0031

解説


 新世紀をむかえた、2001年8月6日。今年もまた、広島市の原爆ドームのほとりを流れる元安川の川面の闇に、鎮魂の祈りがこめられた灯籠たちが、あわやかな光りの流れをつむぎます。
 それは、愛という、ほのかな光りを宿す織物をつむごうとして、はたせなかった命たちの、哀しい祈りを写し出してやまない光景です。
 映画『鏡の女たち』の最初の撮影は、ここから始められました。
 20世紀の人類は…、いや、あえて言うなら20世紀の男たちは、国境をこえて戦いあった。そして、ささやかな幸せを願う女たちがつむぐ愛の織物を、引きさき、ふみにじって顧みない時代をもたらしたのではなかったか?戦争に傷つけられるのは、国境をこえて、どんな時代も、女たちの愛の魂だったのではないのか?そんな男たちのおろかさの象徴が、例えば、原爆ではなかったのか?
 闇に浮かぶ光りに、ふと、そんな思いが浮かび上がってまいります。
 しかし吉田喜重監督は、本作品を、平和への祈りをこめながらも、家族の絆を求めて心さまよわせる女性たちのホームドラマとして描きました。それは一、
「被爆者でない自分に原爆を描く権利はない。」という映画人、吉田。「戦争体験者として、原爆を描く義務がある。」といういまひとりの人間、吉田。この両者の、長い歳月をようした葛藤の、それが結論であったからなのです。
 この映画の主人公「愛」という女性は、広島で被爆した夫との間に娘を生みます。しかし夫の死後、そのことを伏せたため、その娘は失跡してしまいます。それから28年後、はたして自分の娘かどうかはっきりわからない記憶喪失の女性と出合います。彼女は迷いながらも、しかし、もう度家族をとりもどそうとする物語です。
 20世紀は破壊の時代でした。しかし、それでもなお、私たちは破壊の時代を乗りこえて生きてきました。
 では、いったい何の力が、私たちをそうさせてきたのか?
「それは女性の持っている聖なる力。」
「子を生む性の、無償の母性の行為。」
 女性たちの、そんな不可思議な本能の力のおかげではないのか?
 そのような考えに至ったとき、吉田監督ははじめて本映画の製作を決意したのです。日本を代表する映画監督吉田喜重は、寡作の作家です。しかし、それは彼が映画芸術の未来に対し、誠実な姿勢を貫いてきたことの、なによりの証であるのかもしれません。
 映画とは、ドラマという虚構世界を、闇と静寂の中におかれた受け身の観客に、光りと音の情報として、」方的に発信するメディアです。つまり、映画館の闇を、創り手側の情報だけが、支配する訳です。だから映画には、ときにはまやかしの虚構に終わる危険性も潜んでいるかもしれません。だからこそ、映画表現者として、吉田喜重は、何よりも、映画と観客とが、五分五分の、対等な関係を築くことに意を尽くし、映像が、観客の想像力を喚起するものでありたいと考えてきました。虚像にすぎない映像も、観客という生きた人間の体温をともなう想像力と融合しあえば、生きた映像となり得
るからです。そのためには、製作者側が一方的に意味を押しつける「見せる映画」ではなく、観客に「見られている」映画であることで、お互いに、「見返えし合う」関係を生み出す、そんな双方向関係を築く映画であることです。愛し合い、憎しみあう感情の相互関係から実人生の価値も生まれます。そのような関係を築き得るとすれば、映画もまた、つかのまの映画でなく、10年後も20年後も観客に新しく読み取られる映画。またその時代だけでなく、未来に生まれるであろう新しい観客に向けても発信できる、そんなメディアとなり得るのではないでしょうか?
 しかし、それにしても、今回の映画『鏡の女たち』は、原爆という人類が背負わされた、永遠の問題を描く作品です。
 現代社会に生きる私たちの心は、善か悪かにわりきれるものでしょうか?家族を愛する普通の人が、家族に愛されている普通の人を殺すことができる。そのことを、戦争を通して知ってしまったときから、現代人は、人を、そして自分の心を、信じられなくなったのではないか…。実は私たちは、本当の自分の姿を見ることはできません。「鏡の中の自分」は、虚像だからです。さらにいえば、互いに孤立しあっている私たち現代人の心は、何も写しあうことのない鏡であるのかも知れません。では、私たち現代人は、本当の自分をどうずれば見られるのでしょうか?
 この映画の主人公は、そんな、本当の自分を捜す現代女性たちです。愛という感覚が双方向のものだとすれば、家族の愛を求めやまない彼女たち自身が、合わせ鏡であるのかもしれません。では、そんな女たちの鏡の心は、互いに何を写し合うのでしょうか?しかし、映画の中の、彼女たちの心の実像は、観客の皆様お一人のお一人の、心の鏡に写し出されるしかありません。つまり、この映画自身もまた現代人の心を写す鏡であることを願っているのです。
 未来に伝える価値のある「何か」が、この映画と観客の皆様との間に流れる時間の中に発見されるとすれば、その瞬間こそ、この作品に、家族の愛と平和を求める女性映画としての、本当の命が宿される時ではないでしょうか。

ストーリー



 東京都下の閑静な住宅街。彼方に望める高級マンションの風景が、この辺りにも都市化が進んでいることを物語っている。
 古びた一軒の家から、ひとりの女性が現われ、夏の終りを思わせる陽射しのなか、白い日傘を差して、足早に歩みはじめる。
 川瀬愛(岡田茉莉子)である。愛は大学病院の医師であった亡き夫、川瀬信二と、娘の美和と三人で暮らしてきた。
 しかし、美和は20歳のとき家出する。そして4年後、帰ってきた美和は、女の赤ん坊を生むと、夏来と名づけて、ふたたび失踪する。
 ただ母子手帳だけを持って一
 それから24年、愛は孫娘の夏来(一色紗英)を育てながら、月に一度、市役所の戸籍係を訪ね、美和を捜しつづける。そして今日、娘の美和の母子手帳を持った女性が現われたと連絡があり、愛は、元戸籍係だった郷田恭平(室田日出男)と共に市役所にかけつける。
ところがその女性は、幼女誘拐の常習犯として、警察に拘留されているという。
 取調べ中を理由に、愛は面会を断られるが、その女性が尾上正子という名の、記憶喪失者であることを知る。自宅にもどった愛は、アメリカにいる孫娘、夏来に電話をかけ、すぐ帰国するようにいう。
 その日、見知らぬ訪問者が愛を尋ねてくる。テレビ局のプロデューサーだというその女性(山本未来)は、かって広島に原爆が投下されたとき、ひとりのアメリカ兵もまた被爆していた事実を、当時治療活動していた川瀬医師のメモによって知り、そのドキュメンタリー番組を制作することを考えているという。その話を聞いて、愛は言葉少なく、「私はなにも存じません。どうぞお引取り下さい」と、はっきりと断り、扉を閉ざす。
 数日後、愛は尾上正子のマンションを訪ねる。たしかに正子が所持する母子手帳は、美和のものだったが、長い空白の時間が過ぎたいま、愛には尾上正子が娘かどうか、判断できない。
 記憶を喪失している正子は「DNA鑑定をされたらわたしは構いません」という。しかし、愛は「お付き合いをさせていただきたいのです、家族のように一」と、語るしかない。
 孫娘の夏来がアメリカから帰国する。
「あなたのお母さんかもしれない人よ。会ってみたら」と愛に言われても、夏来は自分を捨てて行った人を、母と認めるわけにはいかない。
 しかも、正子の身元保証人と面会した郷田は、その男(西岡徳馬)が正子と愛人関係にあることを二人に告げる。
 しかたなく愛は正子と、街の喫茶店で二人だけで会う。
 紅茶を口にして、そのカップのふちについた口紅のあとを、愛は指で拭き消す。その仕草を見て、自分の母もそうして口紅を拭き消していたと、正子は言う。
「あなたは美和よ、娘です」と、愛は思わず叫ぶ。
 その夜、この話を聞かされて、夏来はこの家に正子を招待することを提案する。その夜一、夏来はメールで、かつての恋人(北村有起哉)に母かも知れぬ人を、母でないことを祈りつつ待つ、自分の心の矛盾を告白する。
 川瀬家を訪れた正子に、幼い日の記憶がよみがえってくる。
 それは広島の、海辺にたたずむ病院一窓からは、小さな島がいくつも浮かんで見えた一
 それを聞いた愛は、「娘の美和は、広島で生まれた」と、告げる。
 三人の女は、それぞれの思いを抱いて、広島へと旅発つ。
 それは楽しい家族旅行のように見えながら、やがて明らかにされてゆく過去の事実に、不安を抱く旅でもあった。
 愛たちは広島の海辺の病院を訪ねる。窓からは小さな島がいくつも浮かんで見える病院で、愛は正子と夏来に、はじめて告白する。
 美和の本当の父、夏来の本当の祖父は、川瀬信二ではなかった。
幼い美和が愛とともに、この病院で最後を看取った人、それが本当の父だったという。「お願い、思い出して。あなたと私の記憶がひとつになるのは、ここ一」と、涙して語る愛。しかし、何も思い出せない正子も忍び泣くしかない。
 暮れかかる原爆ドームを彼方に望みながら、愛は夏来と正子に、過去のすべての真実を語り始める。
 それは、1945年8月6日、原爆が投下された日。
 愛のすべての悲しみは、あの日から始まった。そしてその悲しみは、愛から美和に、美和から夏来へと連なりあって流れて行く一。
「そう、あのとき、誰かと手を取りあい、抱き合っていなければ、とてもあの苦しみに耐えられなかった。」と語る愛の言葉に導かれるかのように、原爆ドームのほとりの、元安川の暗い川面に、おびただしい光の群れが、幻影のように現われ、流れる。それは原爆による犠牲者たちの魂が、いまも息づき、生きてあるかのように、瞬きかけてくる。
 愛たちは、東京に戻ってゆく。広島という街によって、かたく結ばれた三人ではあったが、記憶のよみがえらない正子は、本当の家族のように振る舞い、演じつづけることに耐えられなくなる。

スタッフ

製作:成澤章、綾部昌徳、高橋松男
企画:吉田喜重、高橋松男
監督・脚本:吉田喜重
プロデューサー:高田信一、尾川匠、
   Philippe Jacquier、霜村裕
製作統括:高橋雅宏
音楽:原田敬子
作曲:原田敬子
笙:宮田まゆみ
指揮・ピアノ:中川賢一
ピアノ:中川俊郎
アコーディオン:シュテファン・フッソング
ヴァイオリン:加藤知子
チェロ:植木昭雄
打楽器:大熊理津子
プリペアードピアノ:田中やよい
撮影:中堀正夫(J.S.C)
証明:佐野武治
美術:部谷京子
録音:横溝正俊
編集:吉田喜重、森下博昭
記録:竹田宏子
助監督:中西健二
製作担当:無威久
装飾:小池直実
スタイリスト:田代みゆき
ヘアー・メイク:葉山三紀子
特機:落合保雄
監督助手:市原大地、家次勲、竹田正明
撮影助手:鈴木一朗、浦西伸子、高橋直樹、斉藤徳暁
照明助手:佐野誠、大山雄一、水野良昭、水瀬貴寛、
     渡辺映予、上山小百合、宗賢次郎、福武充、筒井和義
録音助手:藤本賢一、矢沢仁、大橋雅亮
美術助手:中山慎
装飾助手:北村陽一
小道具:森谷美千代
装置組付:齋藤和弘
フードコーディネーター:宮田清美
スタイリスト助手:細井玲子、久保麻樹
ヘアー・メイク助手:林垂穂
音響効果:岡瀬晶彦
編集助手:坪田光恵
ネガ編集:岡安和子
ネガ編集助手:三宅圭貴
リーレコ:下野留之
スタジオエンジニア:立川千秋
光学録音:宇田川章
タイミング:福島宥行
デジタル合成:小川利弘
オプチカル:五十嵐敬二
音楽ミキサー:大野映彦
音楽編集:浅梨なおこ
音楽コーディネーター:岡村雅子
キャスティング:新江佳子
スチール:永江和之
宣伝プロデューサー:野辺忠彦
配給宣伝:吉田秀治、早川均、箕輪小百合
製作宣伝:市井義久(ライスタウンカンパニー)
製作デスク:谷口哲司、宮川史守
撮影応援:藤井良久、石井勲、邊母木仲治、八巻桓存
照明応援:丸山文雄、吉村誠治、西林和彦、川上慎一
特機応援:松田弘志
広島コーディネーター:牛尾英治
車両:比嘉實、伊里博和、小松原英雄、神中栄、小林一郎
製作主任:大利和利
製作進行:原田博志、濱崎光敏
撮影協力:リーガロイヤルホテル広島
技術協力:河東努、森幹生、コンチネンタルファーイースト(株)
製作:グルーヴコーポレーション、現代映画社、
   ルートピクチャーズ、グルーヴキネマ東京
特別協力:フランス国立映画センター
後援:広島市、フランス大使館

キャスト

岡田茉莉子
田中好子
一色紗英
山本未来
北村有起哉
三條美紀
犬塚弘
西岡徳馬
室田日出男
石丸謙二郎
矢島健一
菜々子
奏谷ひろみ
今泉野乃香
トライアルプロダクション
セントラル子供劇団
ラッキーリバー
大蔵笑

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