原題:Nanga Parbat

世界の山、日本の山を舞台にした映画が続々と公開され、 登山ブームに沸く日本に、“本物の登山家の映画”が遂に登場。

2010年1月14日ドイツ公開

2009年/ドイツ映画/カラー/35㎜/シネマスコープ/104分/字幕監修:平井吉夫 提供:ティー ワイ リミテッド 配給:フェイス・トゥ・フェイス 配給協力:ドリームマックス/宣伝:メゾン 後援:ドイツ連邦共和国大使館、ドイツ文化センター 協力:ニッピン、山と溪谷社

2011年8月6日よりヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか全国順次ロードショー

(c) Nanga Parbat Filmproduktion GmbH & Co. KG 2009

公開初日 2011/08/06

配給会社名 1132

解説


世界の山、日本の山を舞台にした映画が続々と公開され、
登山ブームに沸く日本に、“本物の登山家の映画”が遂に登場。

1970年6月27日、標高8,125メートルを持つヒマラヤ山脈ナンガ・パルバート、世界最大の標高差4,800mを誇るルパール壁の初登攀を果たしたラインホルト&ギュンター・メスナー兄弟は、天にも届く山頂で堅く抱擁した。それは、子供のころからのふたりの夢だった前人未到のルートからの登頂を果たした瞬間であった。しかし、登頂成功から4日後、当初予定をしていなかった下山場所ディアミール渓谷に現れたのは兄ラインホルト・メスナーだけであった。弟ギュンターをぼろぼろになりながら探すラインホルトの姿が、数日後ドイツの遠征隊に発見された時には、「メスナー兄弟は死亡」、「初登攀者は、メスナー兄弟たちの後を追った登山家フェリックス・クーエンとペーター・シュルツである」というニュースが世界を駆け巡ったあとだった。そこから、遠征隊長であるカール・マリア・ヘルリヒコッファー博士とラインホルト・メスナーの人生をかけた闘いがはじまったのである。

1970年8月、日本では29歳の植村直己がマッキンリー単独登頂を成功させ、世界初の五大陸最高峰登頂者として日本中が彼の偉業に沸いていた。その2カ月前、ヨーロッパでは登山界の歴史に刻まれたこのナンガ・パルパート ルパール壁初登攀をめぐるスキャンダルが大きな話題となっていた。この“裸の山”と呼ばれるナンガ・パルバートは、ドイツでは“運命の山”として知られ、多くの登山家が挑戦し、命を亡くしていた。メスナーにとっての生涯のライバルとなるヘルリヒコッファーの異父兄である登山家ヴィリー・メルクルも1934年ナンガ・パルバートへの2回目の遠征の時に1週間以上続く吹雪のため命を亡くしている。このことがきっかけとなり、ヘルリヒコッファーは執拗なまでにナンガ・パルバートへの登頂、特に登攀困難とされるルパール壁制覇に躍起になっていたのである。だからこそ、彼がエリート登山家で遠征隊を組むと決めたとき、25歳にしてドイツ登山界で注目されはじめたラインホルト・メスナーを起用したことは当然のことであった。しかし、若く旺盛な自己顕示欲を持つメスナーにとっては、計画を重んじるヘルリヒコッファーとは衝突を避けることは難しかったのである。

そして、初登攀からドイツに帰国してすぐにメスナーVSヘルリヒコッファーの裁判がはじまった。ヘルリヒコッファーはチームを無視してルパール壁へ単独登攀を決めたのはメスナー自身で、ギュンターの死も彼の責任と責め、メスナーは、ヘルリヒコッファーが救助をしなかったことを責めたのである。その結果、名誉毀損なども含め14件もの訴訟へと広がっていったのである。最終的にメスナーは裁判で全面的に敗訴し、独自の遠征報告「ナンガ・パルバートの赤い信号弾」(1971年刊)の出版差し止めと絶版を命じられることなった。

弟ギュンターを亡くしたメスナーは、この1970年を境にして彼の登山のスタイルを大きく変えていった。多くの装備をもつことなく、チームでの登山よりも単独の形にこだわっていくようになり、17年の歳月をかけて1986年には人類史上初となる8,000メートル峰全14座完全登頂という登山史における大金字塔を打ち立てた。そして、世界最高の登山家として活躍するかたわら、ナンガ・パルバートで命を救われたディアミール谷のふもとの村に学校を建築するなどの支援も行った。

1970年6月から約40年たった2009年、メスナーは弟ギュンターの死、ナンガ・パルパート ルパール壁初登攀、そしてヘルリヒコッファーとの確執を自ら映像化することとなった。2004年、ドイツを代表する監督ヨゼフ・フィルスマイアーに自身でこの企画を持ち込み、映画化へ意欲をみせる。ドイツでは誰もが知っているこのドイツ登山史のスキャンダルを当事者本人の協力のもと製作するということで、監督、スタッフ、キャストすべてが意欲的に挑むこととなり、企画から5年という歳月をかけ完成させていったのであった。撮影は、ナンガ・パルバート、パキスタン、メスナーの故郷である南チロルという実際の場所で行われた。そして、衣装も登山装備も、当時のメモなどをもとに忠実に再現しするというこだわりをもって制作されたのが本作『ヒマラヤ 運命の山』なのである。ここに、本物の登山家による、本物の登山映画が誕生することとなった。

ストーリー






1957年南チロル、フィルネス。本当に仲の良い兄弟13才のラインホルトと11才ギュンターが日々考えることはひとつ、“山に登る”ことだった。しかし、ふたりの熱い気持ちとは裏腹に教師である厳しい父は、危険をともなうこの“遊び”に苦言を呈していた。そんな中、兄弟は自宅の裏に広がる渓谷を見ては、遠いヒマラヤ山脈の山頂にある8,125mのナンガ・パルバート“運命の山”に想いをはせていた。しかし、その山は多くの登山家が山頂に到達することなく命を失くす“人喰い山”と恐れられていた。

数年後、彼らの名は登山界で知られるようになっていた。ラインホルト(フロリアン・シュテッター)は大学に通い、ギュンター(アンドレアス・トビアス)は銀行に勤めてはいたが、彼らの願いはプロの登山家になることだった。1969年、ラインホルトは念願のナンガ・パルバート ルパール壁の初登攀を目指す遠征隊への招待を受け、またとない挑戦に胸躍らせていた。しかし、ギュンターは兄の影にある自分の存在に苛立ちを感じはじめ、兄弟の強い絆は、ほころびはじめていた。しかし、遠征隊の一人が参加できなくなったため、ラインホルトが弟ギュンターを推薦し、二人で念願のヒマラヤ山脈に向かうこととなった。二人の興奮する気持ちとは裏腹に、母(レナ・シュトルツェ)は、ラインホルトに弟ギュンターを無事に帰還させることを約束させる。

ナンガ・パルバート初登攀のためカール・マリア・ヘルリヒコッファー博士(マール・マルコヴィス)のもと遠征隊が組まれ、パキスタンへ向かう。ヘルリヒコッファーは50代半ばの登山家であり、実兄で登山家のヴィリー・メルクルをナンガ・パルバート登頂の際に失くした過去があり、初登攀の成功に執拗になっていた。ルパール壁への何度もの挑戦と失敗の後、今回は登山家のエリートたちを集結させ、この難壁を制覇しようとしていた。

スタッフ

監督:ヨゼフ・フィルスマイアー
脚本:ラインホルト・クロス / スフェン・ゼフェリン
音楽:ゲスターボ・サンタオラヤ
プロデューサー:ヨゼフ・フィルスマイアー
エグゼクティブ・プロデューサー:ヨルグ・シャレーン
アソシエイト・プロデューサー:アルミン・ヴェルターズバッハ
撮影監督:ヨゼフ・フィルスマイアー
カメラ:ペーター・フォン・ハラー /ヘルムフリート・コバー/ヤコブ・フォン・レンテ
ライン・プロデューサー:ラルフ・ツィンマーマン
プロダクション・マネージャー:シルヴィア・ビンデル
音響:エックハルド・クーヘンベッカー
美術:アントン・ゲルグ
メイクアップ:ハイナー・二—フエス
衣装:レナーテ・シェーニアン
編集:アレクサンダー・ベルナー/ウリ・シェーン
アドバイザー:ラインホルト・メスナー

キャスト

ラインホルト・メスナー:フロリアン・シュテッター
ギュンター・メスナー:アンドレアス・トビアス
カール・マリア・ヘルリヒコッファー博士:カール・マルコヴィクス
フェリックス・クーエン:シュテファン・シュローダー
アリス・フォン・ホーベ:ユーレ・ロンステッド
メスナー兄弟母:レーナ・シュトルツェ
ペーター・シュルツ:セバスティアン・ベッツェル
ゲルド・バウル:フォルカー・ブルフ
ハンス・ザーラー:ミヒャエル・クランツ
ラインホルト・メスナー(子供時代):マルクス・クローエル
ギュンター・メスナー(子供時代):ロレンツォ・ヴァルヒャー
メスナー兄弟父::ホルスト・クメス
司祭 マティアス・ハビック
ブルダ議員:アレクサンダー・ヘルド
外交官の妻 ズニー・メルレス
外交官:ミゲル・ヘルツ=ケストラネク

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