原題:英雄・鄭成功傅

明から清へ------アジアを救った日本の英雄がいた。 その男の名は、鄭成功

日中国交正常化30周年記念 日活90周年記念作品

2001年/日本・中国/カラー/105分/35mm/ビスタサイズ/ドルビーデジタル 配給:日活

2003年05月23日よりビデオ発売&レンタル開始 2003年05月23日よりDVD発売開始 2002年11月2日よりシネ・リーブル池袋、銀座シネパトスほかにて全国ロードショー公開

(C)2001 A Mind Creator Presentation、(C)2001 国姓爺合戦製作委員会

ビデオ時に変わった場合の題名 英雄・国姓爺合戦

公開初日 2002/11/02

配給会社名 0006

公開日メモ 明から清へ------アジアを救った日本の英雄がいた。その男の名は、鄭成功

解説




歴史が動くとき、劇的なドラマがうまれる。

アジアの英雄
17世紀の中国——時代は、明から清へ変貌しようとしていた。その動乱のうねりの中を風のごとく駆け抜け、中国のみならずアジア、ひいてはヨーロッパの列強にまでもその名を轟かせた風雲児がいた。——台湾を占領するオランダを撃破してヨーロッパ列強のアジア侵略を阻止し、アジアの英雄としてその名を歴史に刻んだ彼の偉大な足跡を、今、中国・日本の、夢の合同プロジェクトが総力を結集し、壮大なスケールで描く。

壮大な史実の再現
構想に7年の歳月と巨費が投入され、スクリーンに甦る壮絶な戦争シーンと迫真の人間ドラマは、鄭成功が成し遂げたオランダからの台湾解放の真実を忠実に再現し、一大叙事詩と呼ぶにふさわしい、堂々たる歴史ロマン大作として仕上がった。本編のハイライトである、兵2万5千、軍艦2百隻の水軍を率いて鄭成功が台湾奪還にいどむシークエンスでは、中国人民解放軍主力3部隊と福建省の全面協力が実現し、実戦さながらの戦闘シーンが撮影された。

近松門左衛門も戯曲化
また、清への帰順を決意する父と、明に忠誠をたて父と対立する鄭成功の苦悩、夫と子の狭間で苦しむ母の物語は、この作品の骨格をさらに太いものにし、観る者を深い感動に誘わずにはおかない。そのエピソードは、近松門左衛門の脚色によって書き下ろされた近世日本文学の金字塔「国姓爺合戦」でつとに有名である。鄭成功の死後53年たった1715年(正徳5年)11月、大阪・竹本座においてその戯曲は浄瑠璃として初めて上演され、翌々1717年(享保2年)の3月にかけ、なんと3年に渡って17ヶ月にもおよぶ大ロングラン興行が打たれた。長期上演のため人形の衣装も傷み、3回も新調したという記録が残っている。歌舞伎は、浄瑠璃が人気を博しているさなかの享保元年の秋、京都・万太夫座で初演された。その後も人形浄瑠璃や歌舞伎で幾度となく上演され、鄭成功の名は民衆に広く知られるところとなり、「国姓爺合戦」は不朽の名作として名をとどめることとなった。

「国姓爺」と呼ばれて
明朝に仕える重臣・鄭芝龍を父に、日本人女性を母に持ち長崎・平戸で生を受けた鄭成功は、やがて中国に渡り明朝に忠誠を誓う。時の皇帝,朱聿鍵(隆武帝)は鄭成功に、皇帝と同じ称号を意味する「朱」の称号を与えることでその忠心に応える。以来、「国姓爺」(皇帝の姓を名乗るべき偉人の意)と呼ばれ民衆に親しまれた。一方で明は、大陸では清の激しい攻撃にさらさ、台湾をオランダに支配され,明はまさに存亡の危機だった。鄭成功は「抗清復明」をスローガンに、中国全土に広がっていく清朝派の軍と勇猛に闘い、ついには宗主として台湾に君臨するオランダを撃破し駆逐していった……。

重厚なドラマを作り上げたスタッフ・キャスト
監督は、張芸謀(チャン・イーモウ),陳凱歌(チェン・カイコー)などと並び中国映画の第五世代を代表する呉子牛(ウー・ヅーニィウ)。1987年度のベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した『晩鐘』や、アジアで大ヒットを記録した『南京1937』(1995)でその手腕と実力は世界的に高い評価を得ている。1999年には、中国建国50周年を記念する大作『国家』も撮っている。
脚本は呉子牛との名コンビで、『南京1937』『国家』も書き下ろした張冀平(チャン・イーピン)。
撮影は,中国映画アカデミー賞撮影部門賞を受賞したキャリアを持ち,既に20本以上の作品を手掛けている伊・呼和鳥拉(イー・フホウラー)。衣裳は、『水滸伝』等を担当し、歴史劇には欠かせない王秋平(ワン・チュウピン)。主演の鄭成功を演じるのは、徐克(ツイ・ハーク)作品でお馴染みの香港の人気スター趙文卓(チウ・マンチェク)。鄭成功の生みの親である日本人女性、田川マツには国際的女優島田楊子が扮している。その他、隆武帝には徐敏(シィ・ミン)、鄭成功の父には杜 志国(トゥ・チークオ)、鄭成功の妻には朱晏(ズゥ・アン) など、中国映画界の主要な俳優人がそれぞれ扮している。エンディングに流れるテーマ曲を担当したのは呉汝俊(ウー・ルーチン)。京劇の女形として、また中国伝統の楽器・京胡の奏者としても世界的な第一人者である。彼はこの作品を観て、民族の英雄の偉業に感動し、鄭成功に一曲捧げたいという熱い思いからこの曲が誕生した。

ストーリー




17世紀前半、中国全土を支配していた明の覇権は、満州より勢力を伸ばした清の台頭により大きく揺らぎはじめていた。清の圧倒的な軍事力の前に、明の軍隊は各地でその軍門に下り、投降した兵士たちは清への帰順を示す為に「弁髪」を強要された。清に味方した李自成率いる反乱軍の熾烈を極めた攻撃に、1644年、ついに北京は陥落し明王朝は滅びた。しかし、一部の明王朝の遺臣たちは、「抗清復明」のスローガンの下に強硬な抵抗を続けていた。南の福建省に陣を構え孤軍奮闘する鄭芝龍(トゥ・チークオ)もその一人だった。
大陸南岸を縄張とする海賊軍団を組織し、福建、台湾の海域を管掌するまでにのし上がり明の重臣として登用された鄭芝龍は、一時日本の海域にまでその勢力を広げる。長崎・平戸に立ち寄った時に、日本人女性、田川マツ(島田楊子)と知り合い、1624年にふたりの間に男の子をもうけた。それが後の鄭成功(チウ・マンチェク)である。幼名を福松といい、8歳の時父と大陸に渡り、森と名を変えた。そして海上軍事学を会得した彼は、明に忠誠を誓う勇猛な若き戦士に変貌を遂げていた。
北京が陥落した翌年、自軍を率い南京で清軍に反攻をかけていた鄭森は、各地に残った兵力を結集し反撃に転じる戦略を練るために一時、父のいる福建に合流した。家臣の林昆と李衛を従えた鄭森は、その途中、清軍に斬殺され累々と横たわる明の兵士たちの屍や、投降し清への帰順を示す為「弁髪」にされた兵士たちを至る所で目撃する。明がもう長くはないと察知した彼は、明の最後の拠点である福建への侵攻も、もはや時間の問題だということを父に告げた。山と海に囲まれた地のりを生かし福建を守り、蓄え、オランダに支配されている台湾を奪還しそこに拠点を置くことが「復明」のための戦いにとって重要な戦略であることを説く父に、鄭森は必ずやそれを果たし国に報いることを誓うのだった。その頃、母マツがはるばる日本の平戸からやってきた。その報が隆武帝の耳に入ると、帝は鄭森と両親を宮中に招喚した。皇帝に忠誠を尽くし明復興のために戦う鄭森の労をねぎらうのと、忠心報国の士を授けた母マツに褒賞を贈るのがその目的だった。さらに鄭森は、隆武帝から皇帝と同じ「朱」姓を賜り、この時より国姓爺鄭成功と名乗ることを許される。
鄭芝龍は再会した妻と鄭成功を引き連れ、久方ぶりの家族水入らずの宴を開いた。福建料理に舌鼓を打っていると店の片隅から流れてくる物悲しげな琵琶の音色に乗せて切々と歌う声が3人の耳をひいた。
——望郷の想いははるか遠く、故郷に帰れるのはいつの日か——
歌い手は、マツが大陸へ向かう途中、福州沿岸を漂流しているところを救出した女性・施良だった。マツが事情を問うと、その若い女は自分が台湾人で、オランダとの戦いに敗れ両親は戦死し、何とか福州まで流れ着いたところを助けられたのだと語った。その一部始終を聞いていた鄭成功は、台湾に居座るオランダを撃破し駆逐することをあらためて堅く心に誓うのだった。
ある夜、鄭芝龍のもとへ使者が訪れた。その伝言は清の皇帝からのもので、内容は、鄭芝龍に福建のみならず広東の長官を任命し、台湾を奪還できたら台湾も任せるというものだった。一方、隆武帝は、仙霞関が清軍と内通しているらしいと察知し、鄭成功を偵察に送りこむことを画策した。そして父は必要とあらば、そこを支配する鄭成功のかつての幼な馴染み、李衛を暗殺してもよいと命じた。鄭成功は、20余名の兵を率い、仙霞関へ潜入していった。久し振りに会う李衛は、もはや明に見限りをつけ清に帰順しているのが明白だった。攻撃を仕掛けてくる李衛の軍を、鄭成功は勇猛に蹴散らし、ついには李衛の胸を剣で深く刺し貫いた。
福建に戻るや、鄭成功の耳に飛び込んできたのは、父、芝龍が清朝に帰順するという報せだった。「忠義を説く父はいても、反逆を説く父はいない」と詰め寄る息子に、父、芝龍は苦悶しながらひとこと、「降伏ではない…」と漏らした。「母を頼む」という言葉を最後に、鄭芝龍は配下を引き連れ北京へと向かった。
清の大軍は日に日に南下し、ついには福建が攻撃に晒された。清軍の圧倒的な銃火器と兵力の前に、鄭成功の軍は退却を強いられた。逃げ場を失った母、マツは自害をして果てた。母の亡骸を手厚く水葬で送った後、鄭成功は、アモイに逃れ陣の立て直しを計った。
雌伏十余年、最強の水軍を率いて鄭成功はついに台湾に攻撃を仕掛ける時を迎えた。1年のうち、最初に訪れる大潮を利して鄭成功の軍は台湾に奇襲上陸を果たし、一気にオランダ軍を攻め陥落させた。時に1661年のことであった。その年の12月、オランダは正式に降伏に調印し、ジャワのバタビアに撤退した。翌1662年、鄭成功は台湾・安平鎮において病没した。

スタッフ

製作総指揮:中村雅哉 
企画:染野行雄 
製作:李寧 
監督:呉子牛 
脚本:張冀平 
撮影:伊・呼和鳥拉 
美術:林琥 
衣裳:王秋平 音楽:章紹同 
出演:趙文卓 蒋勤勤 徐敏 朱晏 杜志国 島田楊子
原題:英雄・鄭成功傳
製作:中国影視音像交流協会、創智電影製作発行公司
   染野企業電影工作室、「国姓爺合戦」製作委員会
製作協力:日活株式会社、染野企業電影工作室、
     長崎県、平戸市、平戸観光協会、中野観光協会
配給・宣伝:日活株式会社 

キャスト

鄭成功:趙 文卓(チウ・マンチェク)
隆武帝(皇帝):徐 敏(シィ・ミン)
薫氏(鄭の妻):朱 晏(ズウ・アン)
鄭芝龍(鄭成功の父):杜 志国(トウ・チークオ)
施良(鄭家の養子):蒋 勤勤(ジアン・チンチン)
田川マツ(鄭成功の母):島田 楊子(しまだ ようこ)

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