まだ、ありがとうとは言えない。

2010年/HD/16:9/日本/94 分/ドキュメンタリー 配給:東海テレビ放送=東風

2011年6月18日、ポレポレ東中野にてロードショー

(C)東海テレビ放送

公開初日 2011/06/18

配給会社名 1206/1094

解説


青く美しかったあの空は、一体誰に奪われたのか。
そして、いま、誰が何をしなくてはならないのか。
高度経済成長期、石油化学コンビナートの煤煙で多くのぜんそく患者が発生した。苦しさの余り自殺者まで出した日本四大公害の1つ「四日市ぜんそく」——公害防止法の法制化のきっかけとなったその裁判の判決から38 年が経つ。
三重県四日市市、磯津地区——公害裁判に立ち上がった人々と、彼らを支え続けた男がいる。
原告の一人、四日市市磯津の野田之一(78 歳)。コンビナート対岸の漁港で3代続く漁師だったが、30 代でぜんそくに蝕まれた。38 年前、裁判に勝訴した時、支援者を前に野田はマイクで、こう呼びかけた。「まだ、ありがとうとは言えない。この町に、ほんとうの青空が戻った時、お礼を言います」と。
そして、公害発生当初から患者たちを写真と文字で記録し続け、原告たちを支え続けた男がいる。公害記録人・澤井余志郎(82 歳)。彼が発行した公害文集は60 冊、その活動は40年を超える。澤井は、「公害はまだ終わっていない…」と話す。判決から38 年たった現在もコンビナートから目を離そうとしない。事実の記録と真実の究明をたゆみなく継続することこそが、本当の青空を取り戻すことにつながると信じているのだ。
彼らは、いまも、問い続けている。この町の青く美しかったあの空は、一体誰に奪われたのか。そして、いま、誰が何をしなくてはならないのか。
本作を制作したのは、東海テレビ放送。共同監督の阿武野勝彦は、『平成ジレンマ』『光と影〜光市母子殺害事件弁護団の300 日〜』などのプロデューサーであり、テレビドキュメンタリーを劇場公開する野心的な試みの仕掛け人でもある。戸塚ヨットスクールのいまを活写し、観る者に平成ニッポンが抱えるジレンマを、圧倒的な迫力で突きつけた前作『平成ジレンマ』とは一転、本作『青空どろぼう』は、静かに私たちの思考を促すドキュメンタリーだ。そこには、いくつもの生々しい傷跡と無数の問いが、時にユーモアとともに織り込まれている。
奪われた日常、奪われた空を映し出すスクリーンを見つめながら、いま、私たちは、どんな未来を、思い描くことができるのだろうか。

ストーリー


「四日市ぜんそく」の発祥地、三重県四日市市磯津。この町に通い、公害の記録を続けている人がいる。澤井余志郎さん、82 歳。
四日市は名古屋からおよそ40 キロ、人口は31 万人、三重県で最大の都市である。その海辺はコンビナート地帯で、300 本の煙突が林立している。工場では石油の精製に始まり、プラスチック製品など様々な石油製品が生産されている。55 年前、戦後復興から高度経済成長へと向かう国策のために、三重県と四日市市は軍需工場の跡地に石油化学工場を誘致した。その時、四日市の市民は誰もが「名古屋のような大都市になる」と希望の眼差しで工場の煙突を見ていた。
澤井余志郎さんは、1966 年から、最も被害の酷い磯津地区に足を運び、患者たちの聞き取りを始めた。磯津は、鈴鹿川を挟んだ第一コンビナートの南の対岸に位置し、工場の煤煙に晒されていた。その煤煙は、亜硫酸ガスなど有害物質を含み、人間が吸い込むと気道が収縮し、吸い込んだ息を外に吐き出すことが出来なくなってしまう。
呼吸が苦しく激しく咳き込む喘息となるのだが、更に悪化して肺の細胞が死んでしまう肺気腫になると、命をつなぐために常時酸素吸入が必要な身体になってしまう。当時の磯津の大気の状態は、環境基準の4.5 倍の亜硫酸ガスで汚染されていた。
1967 年9 月。磯津の患者9 人が、企業6社を相手に裁判を起こす。澤井さんは、弁護団と患者を結ぶパイプ役として奔走した。原告患者の一人、野田之一さん78 歳は、当時を振り返り「四日市公害裁判で一番の影の立役者は、澤井さんだ」と明言する。しかし、四日市市は、裁判の進行中に第3 コンビナートの計画を強行する。当時の四日市市長はこう発言していた。「市の発展のためには、少々の犠牲はやむをえない」。その時、四日市市は税収の3 割をコンビナート企業に依存していたのである。澤井さんは文集「記録 公害」を発行し、コンビナートの増設問題を市民に訴えた。そして、いま四日市で何が起きているのかを写真で記録し始めた。
1972 年7 月24 日。5 年に及んだ裁判に原告が勝訴した。被告企業には、8800 万円の損害賠償の支払いのほか、採算を度外視した公害対策をせよという判決内容だった。さらに、国、県、市に対して、住宅地に工場を誘致した立地上の過失を断罪した。この完全勝利の判決に、野田之一さんは支援者たちに向けて、こう語った。「この判決で四日市に青空が戻ったわけではない。四日市にはじめて青空が戻った時に、ありがとうとお礼を言いたい。」澤井さんは、ビルの屋上からこの報告集会を見守っていた。そして、その時、その後の険しい道のりを暗示するかのように、勝訴に歓喜する人々の背景に、煙を出し続ける煙突群を見てしまうのである。しかし、この判決後、公害対策は確かに進んだ。4 年後には亜硫酸ガスも環境基準をクリアする濃度まで下がった。四日市公害裁判は、経済優先から人間尊重への大きな転換点となったことは間違いない。
澤井さんは、終戦直後に、四日市の紡績工場に就職し、そこで女子工員たちと「生活記録サークル」を始めた。その活動は、初めは自分の生活を見つめることから始まったが、事実の記録が、会社の労働環境を変える力を持っていることを知ることとなる。一方、野田さんは、磯津の漁師の三代目で、14 歳から海に出始めた。身体も大きく、夢は伊勢湾一の漁師になることだった。しかし、34 歳の働き盛りで気管支ぜんそくを発症し、10 年にわたり入院を余儀なくされる。

スタッフ

プロデューサー:阿武野勝彦
音楽:本多俊之
音楽プロデューサー:岡田こずえ
撮影:塩屋久夫
音声・水中撮影:森 恒次郎
水中撮影:岩井彰彦・神辺康弘
TK:河合 舞 効果:柴田勇也
ミキシング:澤田弘基
CG:小清水幹也
題字:山本史鳳
アソシエイトプロデューサー:安田俊之
編集:奥田 繁
共同監督:阿武野勝彦・鈴木祐司
制作・著作・配給:東海テレビ
配給協力:東風 宣伝協力:スリーピン

キャスト

ナレーション:宮本信子

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