棄てられた被爆者
近くて遠い国に分かれて暮らす母と娘
被爆の証が欲しい!

福岡アジア映画祭 プレイベント上映

2009年/90分/HDCAM
配給:ヒロシマ・ピョンヤン制作委員会

2010年7月3日(土)〜30日(金)ポレポレ東中野にてモーニングショー

公開初日 2010/07/03

公開終了日 2010/07/30

配給会社名 1135

解説


59年間も隠され続けてきた 被爆の事実
平壌の娘が 広島の母から聞きたい事とは
『ヒロシマ・ピョンヤン  棄てられた被爆者』は、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)で暮らす広島・長崎の被爆者を取り上げた映画である。今まで、「被爆者」「原爆」についての映画は数多く制作されてきたが、在朝被爆者を取り上げたものはこの作品が初めてだ。
平壌でのロケは、日朝関係が最悪だった08年〜09年に3回行なわれた。娘夫妻のアパート・被爆者治療を行なっている病院・温泉療養所、そして軍事的理由から厳しい制約がある海岸など、外国メディアにほとんど許可されない場所での撮影を実現させた。そもそも朝鮮で、ドキュメンタリー映画の長期ロケをした日本人は初めてなのだ。
伊藤監督は、今までに朝鮮で会った被爆者12人の中から、李桂先(リ・ゲソン)さんに絞って撮影をした。その大きな理由として、半世紀近くも使っていない日本語を今も上手に話すからだ。通訳を介するよりも、日本語で日本の観客に語りかける方がはるかに被爆者の思いが伝わると判断した。朝鮮で暮らす一人の庶民が、自らの人生・今の生活や考えを外国人のカメラの前でこれほど率直に語ったことはないだろう。
在朝被爆者を、映画でどのように描くのか?伊藤監督は、桂先さん一家の日常生活に深く入り込む中から、放射線の後遺症で苦しむ被爆者の姿、日本政府から置き去りにされ続けてきた在朝被爆者たちの怒りと悲しみを描くことにした。またこの映画からは、激動の時代を生きた在日朝鮮人の歴史と、隣国でありながら敵対しているという現在の異常な日朝関係が見えてくる。
2010年は、日本がアジア太平洋戦争で敗れ、朝鮮支配が終焉してから65年になる。だが日本は、近隣諸国との間でさまざまな問題を抱えたままだ。私たちが暮らす日本の社会が、過去の戦争・朝鮮支配・原爆と正面から向き合うことから、日本と東アジアの平和と安定が生まれるのではないか。そのための大きな波を起こしたいと願い、この映画は制作された。どんな波になるかは、あなた次第である!

ストーリー





朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の首都・平壌(ピョンヤン)で暮す李桂先(リ・ゲソン)さん。二重にしたゴム手袋で食器を洗う。指の皮膚が極端に弱く、素手だとすぐに出血してしまうからだ。髪の毛が、すべて抜けてしまったこともある。被爆したことが、それらの原因だと桂先さんは言う。                       
広島市から約27キロメートル離れた大竹市で、桂先さん一家は暮らしていた。1945年8月15日、日本は敗戦。朝鮮へ帰国するための手当てが出るという話を聞き、母親は桂先さんを連れて広島市内へ向かう。その日は、米軍による原爆投下から12日目。広島市内はまだ残留放射能で汚染されていた。手当て支給の話はデマで、しかも母親と娘は被爆してしまった。                                                      
帰国をあきらめた一家の、日本での暮らしは厳しかった。桂先さんは大学進学を望んだが、それは経済的に難しかった。ちょうどその頃、朝鮮への帰国事業が始まる。桂先さんは大学へ入るため、家族の中で一人だけで海を渡った。  
結婚後、桂先さんの健康状態は次第に悪くなっていった。自分の健康を蝕んできた原因は被爆ではないか、と思ったのは2004年。広島から訪ねて来た母親が、病にひどく苦しむ娘の姿を見て、広島市で被爆していることを告げたのだ。それは被爆から59年も経っていた。それまで母親が黙っていたのには、深い理由があった。
広島と平壌とに遠く離れて暮らす母と娘・・・。桂先さんは、自分が被爆した時の詳しいようすを母親から聞きたい。だが日本政府の制裁によって、日朝間を行き来していた船は運行停止になり、母親は来られなくなった。行き来できない中で、被爆者の母親と娘は互いの健康を気遣う。そして映画は、誰も予想しなかった結末で終わる。

スタッフ

制作:ヒロシマ・ピョンヤン制作委員会
企画・構成・撮影・写真・ナレーション:伊藤孝司

監修:李実根
朗読:新屋英子
音楽:河弘哲
編集:土屋トカチ 小林アツシ
企画・構成・撮影・写真・ナレーション:伊藤孝司
制作・配給:ヒロシマ・ピョンヤン制作委員会
宣伝:ブラウニー

キャスト

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