原題:STRANDED I've come from a plane that crashed in the mountain

2007年/フランス/カラー/113分/ 配給:熱帯美術館、グアパ・グアポ

2009年5月23日より、シネマート六本木にてロードショー 2009年4月11日より、ヒューマントラストシネマ渋谷他全国順次公開

(c) Ethan Productions

公開初日 2009/05/23

配給会社名 0164/0231

解説


1972年10月、世界史にその名を残し、タイタニック号の沈没やスペースシャトルの爆発にも劣らない衝撃を全世界に与えた‘アンデスの聖餐’事故。墜落死した乗客の人肉を食いつなぐことによって、氷点下の雪山で72日間を生き抜き、ついに脱出に成功した16人の生存者の事故記録と証言は世界中に好奇と理解の両方の反応によって迎えられた。当初、これを現代のカニバリズムとして捉えるものもいれば、これを神が自分たちに与えた試練だったという生存者たちの説明を歓迎するものもいた。
その後、事件の詳細を綿密な調査と関係者の証言をもとに発表されたルポルタージュ作品「生存者」(P・P・リード著)が発表され、また、サバイバル映画の名作『生きてこそ』(93)の中で、事故の詳細と生存者たちの脱出に向けた過酷な戦いが描かれた。その両作品に共通して流れている熾烈な状況下における団結と友情、そして生きるための強い意思の表現は事故の真実を誠実に語るものである。

しかし、同じウルグアイのモンテビデオの出身で、生き残った生還者たちの友達であるゴンサロ・アリホン監督は、彼らと話を交わす度に必ず話題に上るこの事件の話を聞き、そこに前記の2つの表現方法(著作、フィクション映画)では語り尽くせなかった、生還者の言葉だからこそ伝えることのできる事故の真実がまだ残されていることを発見する。
すでに国際的に著名なドキュメンタリー作家であったアリホンは、生還者たちのインタビューを採録するとともに、その証言をもとに当時の事故状況を再現して、その時、サバイバルの現場で何が起こったのかを忠実に追究してゆく。また、特筆すべきことは、この作品が生還者たちと事故で亡くなった人々の遺族との交流も、同時に描いていることであろう。彼らが事故を封印せず、互いに交流を保ち癒しあう姿は、見る者に‘それでも生き残ることの大切さ’を強く訴え掛ける。モノクロームの抑えた映像で描かれる再現ドラマの詩的な表現と対照的な映像は、まさにドキュメンタリーという手法だからこそ迫ることののできた優れたアプローチであろう。

この『アライブ‐生還者‐』は、2007年に国際的なドキュメンタリー映画祭として名高いアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭(IDFA)でグランプリに当たるVPRO Joris Ivens賞を受賞後、2008年にはサンダンス国際映画祭を初めとして、サンフランシスコ、マイアミ、マラガ、トロント、ストックホルム等の30以上の国際映画祭に招待され、ドキュメンタリー各賞を受賞し、大変な反響を呼んでいる。究極の状況の中で生きることを選ぶ人間の意志と団結力の物語は、崇高な人命がたやすく失われるようになった現代社会において、必ずや日本でも多くの人々の賛同を集めることだろう。

ストーリー

1972年10月12日、ウルグアイ空軍の軍用機がモンテビデオから45名の人々を乗せてチリのサンチアゴに向けて飛び立った。飛行機は、ウルグアイ郊外の高級住宅地カラスコから来たラグビーチーム‘クリスチャン・ブラザース’によってチャーターされたものだった。若者たちは親善試合に遠征する予定で、何人かの親や友人たちと共に、太平洋の海岸で楽しい週末を過ごそうと考えていた。
しかし、アンデス山脈付近の悪天候のため、飛行機は山脈のアルゼンチン側山麓にある平凡な町メンドーサに着陸せざるを得なかった。天候の回復を待ち翌13日、飛行機は再び飛び立った。15:30、パイロットはサンチアゴの管制塔に飛行機の位置と高度を連絡した。しかし、その1分後、管制塔が再び飛行機と通信を試みたが、今度は何の返答もない…チリ、アルゼンチン、そして、ウルグアイが共同で飛行機の捜索を始めたが、その年のアンデス山脈は記録的な大雪に見舞われており、機体を白く塗られていた飛行機を発見する可能性は非常に低く、45人の乗客のうち一人でも生き残っている可能性はさらに低かった。
惨事から10日後、捜索は打ち切られた。生き残った遭難者たちはこの事実をまだ動いていたラジオで知った…そして、そこには食べるものは何も残されていなかった…

スタッフ

監督:ゴンサロ・アリホン

キャスト

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