原題:Dear Pyongyang

ベルリン国際映画祭 最優秀アジア映画賞受賞 サンダンス映画祭・審査員特別賞受賞 山形国際ドキュメンタリー映画祭・特別賞受賞 第10回 韓国・プサン国際映画祭正式出品

2005年/日本/カラー/デジタルベーカム/107分/ 配給:シネカノン

2007年07月08日よりDVDリリース 2006年8月26日、渋谷シネラセットほか全国順次ロードショー

(C)2005 Yonghi Yang/Cheon inc.

公開初日 2006/08/26

配給会社名 0034

解説


愛にあふれたヤン家に世界がくぎづけ! 笑いあり涙ありの【感情のジェットコースター映画】として世界各地の観客を魅了している。

大阪で生まれ育った映像作家ヤン・ヨンヒが自身の家族を10年にわたって追い続けた 映画「ディア・ピョンヤン」

北朝鮮に〈帰国〉した3人の兄たちと、朝鮮総連の活動に人生を捧げた両親を記録した父親と娘との離別と再会、そして和解を描く感動作。

日本で生まれ育ったコリアン2世のヤンは朝鮮総聯の幹部として自分の一生をすべて“祖国”に捧げつづける両親のもとで育った。
3人の兄たちは、30数年前に北朝鮮へ“帰国”した。

なぜ、そこまでして祖国に自分たちのすべてを捧げ続けるのか?
深まる葛藤と、長い対話。

変貌する時代の中で次第に親子は違う生き方を選ぶお互いを受け入れ新しい関係を模索していく。
しかし、そんな父には死の危機が迫っていた…。

猛烈キャラ=なにわのオッちゃんに世界中で拍手の嵐!!

外では威風堂々としているが、家ではステテコ姿で「母ちゃんは最高や!」と母にベタ惚れの父。
いつもとびきりの笑顔で家族を包みこむしっかり者の母。
何よりも妹の幸せを願う3人の兄。そして、興味津々でビデオカメラを覗きながら、全身で祖父母への感謝の気持ちを表す北朝鮮の甥っ子姪っ子たち。どんな政治的背景があろうと、スクリーンに映し出されるのはどこにでもある家族の日常だ。

誰もが微笑まずにはいられないあたたかな家族の情景がつまった本作は、プサン国際映画祭でのワールドプレミアを皮切りに、世界各国で話題騒然!
観終わった人々が、思わず自分の家族について語り出すというムーブメントを巻き起こしている。
韓国では、頑固一徹な父のキャラクターに観客が大笑い! 
ベルリン国際映画祭、サンダンス映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭といった主要な映画祭でも、この普遍的な父娘の和解ドラマが絶大なる共感を呼び、それぞれ栄誉ある賞を受賞。現在も数多くの映画祭からオファーが殺到しており、
笑いあり涙ありの“感情のジェットコースター映画”として、世界各地の観客を魅了し続けている。

ストーリー


約3万人の在日コリアンが暮らす町、大阪市生野区。
朝鮮総聯の幹部として、人生のすべてを「祖国」に捧げる両親のもとで、私(ヤンヨンヒ)は育った。
3人の兄たちは30数年前に北朝鮮に「帰国」。日本に一人残った子供である私は、幼い頃から徹底した民族教育を受け、家庭でも学校でも「祖国に忠誠を尽くす人になりなさい」と言い聞かされてきた。

大人になった私は、父の人生を映画にすることを決意する。
77歳になり、総聯の仕事を引退した父の最近の口癖は「早く彼氏を見つけろ!」。「どんなんでもええわ。お前の好きなヤツやったら」と言いながらも、日本人はダメ、アメリカ人もダメ。自分の人生は自分で選ぶものだと信じている私は、両親の期待に応えられそうにない。
モーニングを食べに馴染みの喫茶店へ向かう道で、私が歩くのと変わらない速度で自転車を漕ぐ父をカメラ片手に追いながら、私は父が生きてきた時代や一途に信じてきたものについて考える。

15歳の時に済州島から渡ってきた父は、終戦を日本で迎え、北朝鮮を祖国として選んだ。それ以来、朝鮮総聯の中心メンバーとして、在日朝鮮人の社会的地位の向上や祖国統一のための活動を続けてきた。
やがて日本生まれの在日コリアン2世の母と出会って一目惚れし、「結婚できなければ死んでしまいます」と言って熱烈にプロポーズ。夫婦二人三脚で政治活動を行いながら、3人の息子と1人の娘をもうけた。

3人の兄が、一度も見たことのない「祖国」北朝鮮に「帰国」することを知らされたのは1971年のこと。その時6歳だった私は、「帰国」の意味もわからないまま、紙吹雪が舞い、ブラスバンドが鳴り響く新潟港で彼らを見送った。
当時18歳、16歳、14歳だった彼らは、寄宿舎で暮らした後、それぞれ家庭を築き、今もピョンヤンで暮らしている。
私が学校の祖国訪問で初めてピョンヤンを訪れた際、決められたスケジュールの中で兄たちに「面会」した。11年ぶりの再会だった。

兄たちがピョンヤンに渡ってからというもの、母はこまごまとした日用品を段ボール箱につめて送り続けている。
最初こそ、「少し不自由があっても現地の人と同じ生活をするようにしなさい」と兄たちに言っていた母だが、北朝鮮の実情を知るにつれて、荷物はどんどん大きくなっていった。兄の子供たちが凍傷になったと聞けば、箱いっぱいの使い捨てカイロを送り、それぞれの名前と用途を書き入れた薬を包む。こんなこと「親しかできへんで」と明るく笑いながら。
兄たちの家族の生活は、これらの仕送りの上に成り立っている。しかし母は、彼らが生活できているのは「祖国のおかげ、将軍様のおかげ」と周囲に話す。

2001年秋。父の古希をピョンヤンで祝うことになった。
父、母、私の三人は飛行機、電車を乗り継いで新潟港まで行き、万景峰号に乗船した。北朝鮮の玄関口、元山港の景色は、初めて訪れた20年前からほとんど変わっておらず、時が止まったままのようだ。ピョンヤンに向かうバスの中では、いつも通りバスガイドが革命の首都についての説明をする。高速道路の「ピョンヤンまで16km」という標識が窓の外を流れていく。

兄のアパートに着いた両親と私は、元気いっぱいの甥や姪から歓迎を受ける。彼らから仕送りに対するお礼を言われて喜ぶ父と母。長男の息子ウンシンは、停電になってもロウソクの灯りの中でピアノを弾き続ける。ウンシンは音楽舞踊大学の付属校でトップ3に入るピアノの名手なのだ。「世界で一等!」と父。

高級レストランの大広間で盛大に行われた父の誕生日会には、全国から約100人もの参加者が集まった。その多くは「帰国者」だ。私は、両親が兄たちだけではなく、親戚や友人にも仕送りをしていたことを知る。このパーティーも兄たちが開いたものではあるが、その費用は両親の仕送りから出ている。スーツの胸に勲章を並べてマイクの前に立った父は、「革命家を育てることが自分の仕事」だと宣言する。そして自分は「まだ祖国に忠誠を尽くしきれていない」とも。

日本に向かう船の上で、母はいつまでも手を振り続けた。兄たちは、別れのたびに「ヨンヒ、がんばれよ。幸せになれよ」と言う。「お兄ちゃんたちもがんばって」と言いながら、私は「がんばる」という言葉の意味の違い、重さを痛感する。

それから3年の月日が過ぎた、2004年6月。
兄たちを帰国させたことを後悔しているかという私の問いに、父は「行かさなくてもよかった」と漏らす。以前なら激怒していたような質問に対して、言葉少なに、しかし誠実に答えてくれるようになった父。自分は最後まで将軍様に忠誠を尽くし、息子や孫もそうしなければいけないと宣言する一方で、「お前は別枠だ」「情勢が変わった」と言って私が朝鮮籍から韓国籍に変えることも認めてくれた。

父が脳梗塞で倒れたのは、その3週間後だった——。

スタッフ

撮影・脚本・監督:梁英姫(ヤンヨンヒ)
編集:中牛あかね
サウンド:犬丸正博
翻訳・字幕:赤松立太
プロデューサー:稲葉敏也
制作協力:メディア プラザ、プラム クリークス、パッソ パッソ
製作:CHEON Inc.

キャスト

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