第23回バンクーバー映画祭コンペティション部門グランプリ 第27回ピアフィルムフェスティバルグランプリ

2003年/日本/90min 配給:ぴあ、ユーロスペース

2006年02月22日よりDVDリリース 2005年7月30日、ユーロスペースにてロードショー 

公開初日 2005/07/30

配給会社名 0148/0131

解説


100%の純愛映画
 崩壊へのかすかな予兆はあった。パニック障害になり社会生活がままならなくなってしまった北川。やがて彼はあるセミナーに通い出し、新興宗教にはまっていく。そんな彼との日常を取り戻そうと、ふたりの生活を必死で堰き止めようとする志津。彼女は日常に北川を呼び戻そうとすることで、北川は非日常の世界に志津を引き込もうとすることで関係を修復しようとする。しかしそれは互いが“他人”であるということにおいて、脆くも崩れていくのだった…。
 些細な出来事からやがておこる、ひと組のカップルの崩壊のすべてを、秋から春にかけての季節の流れのなかで、ショッキングにもリアリティ溢れた感性で描いた傑作。誰もが経験する、恋愛における絶望的な葛藤とその終わり。その終焉から生まれる次の瞬間が、苦悩のなかで美しく描かれた100%純愛映画の誕生である。

PFFが発見し、すでに世界が認めた新たな才能の誕生
 これまでに黒沢清、石井聡互、塚本晋也、犬童一心、矢口史靖、古厩智之、大谷健太郎、李相日など日本映画界を背負う逸材を多数輩出してきたPFFから、また新たな突出した才能が出現した。2004年ぴあフィルムフェスティバルPFFアワード2004グランプリ&技術賞の受賞を皮切りに、2005年バンクーバー国際映画祭でグランプリ(ドラゴン&タイガー・ヤングシネマ部門)、そしてさらに2005年香港国際映画祭グランプリ(アジアデジタルビデオ部門)を受賞した、高橋泉監督の『ある朝スウプ』である。
 パニック障害、ひきこもり、新興宗教、洗脳、カルトなど現代がもつ闇の部分をベースに、ふたりの男女のコミュニケーションのすれ違いによる葛藤、あるいは孤独感などをショッキングにもリアリティ溢れた感性で描かれた作品。現代社会が抱える困難な課題をテーマにしながらも、ありきたりな通り一遍の解釈の提示を拒み、深い人間洞察に支えられた緻密なドラマを構築した手腕は、すでにいくつかの海外の映画祭での受賞暦によって立証されたといってよい。

ひと組のカップルの変容と崩壊
 映画は、東京の片隅で生きるひとつのカップルの関係が、10月から4月までの7ヶ月間を通して、季節の移ろいとともに、変容し、ゆるやかに崩壊していくさまを、あたかも定点観測のような冷徹な眼差しで追っていく。
 北川(広末哲万)は、パニック障害と診断され、会社勤めができなくなり、在宅でできるデータ入力の仕事を始める。一緒に住む志津(並木愛枝)は、優しく、庇護するように北川をみつめる。
冒頭の、長い食事のシーンがひときわ印象的である。ささやかな、とりとめのない日常的な会話を交わすふたりを、やや逆光気味の構図でとらえたこの場面は、小春日和のような穏和な静謐さのなかで、ふたりの親密な関係を鮮やかにとらえている。と同時に一方では、卵をかき回す音、洗濯機のなかで洗濯物がぐるぐる回る音の響きが際立つように強調され、すでに不穏な気配を仄めかしてもいる。この映画では、走る電車の音、食べる音、携帯の鳴る音など、さまざまな日常の音が強調され、見る者の聴覚や神経を微かに刺激するが、結果として、この繊細すぎる主人公の内面に寄り添うような不思議な効果を上げているのである。

最初の予兆は、狭いアパートの一室にドーンとおかれた黄色いソファである。この明らかに場違いな<異物>が、北川の決定的な変容をシンボライズし、ふたりの間の亀裂をより一層押し広げていくことになる。セミナーに通い始め、数珠のブレスレットをし、ふたりで貯めた貯金を無断で下ろしてセミナーからこのソファを買った北川を、志津は激しくなじり問い詰める。“カルマ”などの用語を多用し、精神世界に飛翔してしまい、抽象的な言葉を連ねる北川と、あくまで日常的で、具体的な言葉で対峙し結びつこうとする志津は、微妙に、しかし決定的にすれ違っていく。ふたりの激しい葛藤が、後半の主題となる。
志津のほうも転職を余儀なくされ、再就職活動を始めるがなかなかうまくゆかず、友人の紹介で東京に点在する空き地の写真を撮るというアルバイトを始める。彼女が撮った空き地の写真が何点かインサートされるが、あたかも荒涼たる彼女の心象風景をそのまま映し出しているかのようだ。彼女の不在をぬうように、新興宗教の信者が北川を訪れる場面がある。しかしそこでは、いたずらに恐怖をあおるような、浮世離れした奇矯な言葉が飛び交うわけではなく、かえってそのありふれた会話が不気味なリアルさを感じさせる。

広末哲万監督作品『さよなら さようなら』
この信者を演じているのが、この作品の監督・脚本を手がけた高橋泉自身である。また主人公の北川を演じている広末哲万は、やはり2004年のPFFアワードで準グランプリ賞を受賞した『さよなら さようなら』の監督・編集・主演をつとめている。『さよなら さようなら』は、自殺志願者のサイトで集まった若者が集団自殺する事件が起き、その事件のただひとりの生き残り・ヨハネを名乗る男(広末哲万)が現われ、自殺志願者を募る。しかし、ヨハネの真の目的は自殺志願者に死の恐怖を味あわせ、屈辱感を与えてほくそえむという悪意だったという物語である。この映画では、高橋泉が脚本を書き、出演もしているが、自殺サイトや新興宗教、都市伝説、自閉した精神世界に耽溺する人々への独特のアプローチの仕方において、このふたりのコラボレート作品には、共通した手触りが感じられる。 

映画史上、最も際立って美しく、痛ましい愛のダイアローグ
季節がめぐり、寒い冬が終わって、春の兆しが見え始める頃、事態は決定的な局面を迎える。無精ひげをはやし、うつろな表情を浮かべるようになった北川のセミナーへの参加を止めさせようと、志津は罵倒し、殴り、殴り返されるという悪無限的な日々が続く。そんなある日、激しいやりとりの末に北川はトイレに閉じこもり、外の窓から志津が問い詰める。ここから、この映画の最も感動的で切迫したダイアローグが開始される。
セミナーのご託宣を繰り返すだけの北川に業を煮やした志津は、「北川くんは病気なのよ」と批判する。果てのない応酬が繰り返され、「じゃあ、一緒に住んでいても、同じことを考える必要があるのか?所詮、他人だろ」と反駁する北川に、「他人じゃないよ」と精一杯答える志津。しかし、関係はいつの間にか、逆転している。「それなら病気の半分、もらってくれよ」と懇願する北山に、志津は涙声で、力なく「もらってるよ」と答えるほかない。この、窓を介して見つめ合っているふたりの間には、決定的な隔たりが存在することを映像は痛ましいまでに雄弁に物語っているのだ。
この鬼気迫るシーンは、ジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』を想起させるような、切実な情感があふれている。ここで交わされた一連のダイアローグは、近年の日本映画のなかで聞くことができる、最も際立って美しく、痛ましい愛の言説といえるだろう。

この作品では食事のシーンが頻出するが、本来、日々のコミュニケーションの確認のセレモニーであったはずの<食べること>が、次第に関係の変化を示唆するイメージと化し、ラストシーンでふたたび反復されると、冒頭の光景とはまったく異質の情動を喚起させずにはおかない。見る者は、「他人なんだね」という志津の最後の台詞が、記憶にこびりついてついて離れないだろう。そして、この作品がたんなる精神を病んだ人間の治療をめぐる物語ではなく、ある悲痛な愛の終焉を真摯に描いたラブ・ストーリーであったことに、あらためて気づかされるのである。

高橋泉&広末哲万という注目のユニット
 監督の高橋泉は2001年より、今回主演をつとめた広末哲万とともに、映像ユニット「群青いろ」を結成。広末とともに自主制作で20数本の映像作品を製作するなどユニットとしての活動を多くしてきた。最新作は広末監督・高橋脚本による『阿佐ヶ谷ベルボーイズ』(04)。
 またPFFアワード2004の審査員のひとりだった犬童一心監督にその才能を認められ、現在、犬童監督の新作の脚本執筆などにも参加。さらには他の監督からの脚本のオファーも相次いでいる。    なお第●回PFFスカラシップは、広末哲万監督・高橋泉脚本の『14歳』(仮題)が選ばれており、ふたりの才能の今後が大いに期待できる存在となっている。

ストーリー


パニック障害で精神科に通う男・北川。そばには彼に献身的に付き添う同性相手・志津の姿があった。一緒に暮らす二人は朝日差す中、穏やかに喋りながら朝食をとる。しかし、そんな日々も少しずつ崩れ始めていく。

スタッフ

監督:高橋泉
脚本:高橋泉
撮影:高橋泉
編集:高橋泉
音楽:並木愛枝

キャスト

並木愛枝
廣末哲万
高橋泉

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