原題:Marlene Dietrich: Her Own Song

戦争、テロ、核。 こんな時代だからこそ、戦争の無益さを歌に託したあの、伝説の歌姫に会いたい…

2001年/フランス・ドイツ・アメリカ/105分/ 配給:トライエム

2004年07月15日よりDVD発売開始 2003年11月8日より、Bunnkamuraル・シネマにてロードショー

公開初日 2003/11/08

配給会社名 0244

解説


細い描き眉、ヘミングウェイがこよなく愛した頬の窪み、百万ドルの保険をかけた美しい脚、イブニングドレスに毛皮と宝石、そして恋多き女…1901年から1992年まで、20世紀をまるごと生きた女優マレーネ・ディートリッヒは、スキャンダルさえ優雅な衣装のように身に纏うことのできた、ゴージャスそのものの女優だった。女優として、最高のものだけが似合う女だった。
が、ドイツの貴族の娘として生まれた女優が、90余年の生涯にただ一度、3年もの間、粗末な服に身を包み、素顔のまま戦地を駆け巡っていた時代があった。第2次大戦時、ヒトラーの右腕といわれたゲッぺルスの呼びかけに応えず、アメリカの市民権をとるや、GIのユニフォームに身を包んで、「リリー・マルレーン」を歌いながら、遠くはアフリカまで50万人もの連合軍兵士を慰問し続ける旅を続けたのである。
ディートリッヒの孫にあたるディヴィッド・ライヴァは、今や20世紀のイコンとして存在する祖母ディートリッヒの作られた神話に挑戦するかのように、長いフィルムハンティングの末、未見のフィルムを多数集め、また、ディートリッヒの人生に登場した人たちの証言を収録して、ここにディートリッヒに関する新しい神話をみごとに誕生させたのである。それは、人生のどのようなシーンにおいても、ディートリッヒが自分の歌を歌うことのできた女だという神話である。
1930年代から40年代にかけて、アメリカ映画界は、いわゆる2人の“輸入女優”に席巻された。1人はスウェーデンから“輸入”されたグレタ・ガルボ、そしてもう1人はドイツから“輸入”されたマレーネ・ディートリッヒ。2人の女優は頬の窪みの美しさこそ同じだったが、その魅力は対極にあった。抑制の冷やかな魅力のガルボに、熱い感情の香り立つディートリッヒ。3歳年下のガルボが36歳で自分の女優人生に幕を引いた後も、ディートリッヒは、女優から歌手、エンタテイナーと軌道を修正しながら、70代でディートリッヒとしてのステージから降りるまで、終始、“夢の女”を演じ続けたのである。長い女優生活で1度も老婆を演じることなく終わった女優、これは奇跡の女優人生だということができるだろう。
ディートリッヒの膨大な伝記を書き上げた娘のマリア、ドイツ映画界の盟友ヒルデガート・クネフ、フォルカー・シュレンドルフ、ビリー・ワイルダーら監督たち、歌手ディートリッヒ誕生に奇与した作曲家のバート・バカラックなど21人の証言者たちは、彼女が作られた人形に決してならなかったその根拠を語る。
恋多き女のディートリッヒの恋の始まりは、夫も娘もある彼女をアメリカに連れ去って『モロッコ』を撮ったユダヤ人監督ジョゼフ・フォン・スタンバーグだったが、その後、彼女の恋人となったのは、時代の寵児と騒がれる作家、俳優たちばかりだった。なかでも、心打たれるのは、戦地を慰問しながら、自由フランス軍兵士として従軍する恋人ジャン・ギャバンとの偶然の出会いを信じる、初々しいディートリッヒの恋心であろう。
「私の原点は戦争」。そう、言ってはばからなかったディートリッヒにとって、この映画が語る戦場でのディーバとしてのディートリッヒの映像は、まさに、彼女の中の女、母性、そして、人間にとっての自由の意味を深い感動をもって伝えてくる。それこそがディートリッヒにとっての愛。ディートリッヒのもっとも近しい友人ヘミングウェイはそのことを「彼女は愛について誰よりも知っている」と強く語っている。

ストーリー

1930年代初頭、デビューから数年を経たマレーネ・ディートリッヒは、銀幕のトップスターとして輝かしい名声を享受していた。しかし、伝説の大女優という栄光の裏側で、ディートリッヒは祖国を捨てた女性として、もう一つのドラマを生きていたのだ。
ディートリッヒをめぐる物語は、1920年代のベルリンから始まる。
政治と文化が渾然一体となり、一種独特の雰囲気を生み出していた20年代のベルリン。キャバレーやナイトクラブ、劇場を舞台に退廃的でセクシャルな狂宴が夜ごと繰り広げられ、ヨーロッパ文化の中心地であった。
その一方で、政治的混乱の渦中にある街でもあった。
第一次世界大戦の戦禍と深刻な不況の重圧に苦しみ、戦後新たに誕生した国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチスが急速にその支配力を拡大しつつあったのだ。
こうした社会情勢のなか、ディートリッヒは幼い子を抱える既婚の身でありながら、迷うことなく新たな文化の潮流に身を投じた。劇場やキャバレーが生み出した奔放な文化の洗礼を経て、次第にディートリッヒはミステリアスなセルフ・イメージを確立していく。曖昧にぼかされたセクシャリティとあらゆる体験を受け入れる大胆さ、そして自らの願望を貪欲に追求する生き方が、ディートリッヒを唯一無二の存在へと押し上げようとしていた。
やがてディートリッヒは、舞台や映画への出演を重ねながら女優としてのキャリアを確立していく。そしてある夜、映画監督のジョゼフ・フォン・スタンバーグとの出会いによって、人生最大の転機を迎えることになる。
スタンバーグの監督作『嘆きの天使』(’30)に主演女優として抜擢され、瞬く間に国民的スターの座に躍り出たのだ。映画の完成直後、ディートリッヒはスタンバーグとともに渡米。『嘆きの天使』に続いてハリウッド映画『モロッコ』(’30)に主演し、一夜にしてトップスターの仲間入りを果たしたのだ。
その頃、祖国ドイツでは不吉な予兆が漂い始めていた。’33年にナチスが政権を掌握し、市民たちはなすすべもなくその渦に飲み込まれていたのだ。ベルリンに帰郷したディートリッヒはその現実に大きな衝撃を受ける。やがてユダヤ人迫害が始まると、ディートリッヒの夫ルドルフ・ジーバーはいち早く状況を察知して、家族を国外へと退避させた。
1930年代におけるディートリッヒのキャリアは、アップダウンの繰り返しだった。
出演作のなかには『間諜X27』(’31)『上海特急』(’32)などの名作も含まれているものの、『西班牙狂想曲』(’35)他興行的な惨敗を喫した作品も数多い。半面、彼女の人生には小説家のエーリッヒ・マリア・レマルクやフランスの俳優ジャン・ギャバンなど、次から次へと愛人が登場し、彼らから受けた政治的な影響は、すでに確固たる思想を形成していたディートリッヒにさらなる刺激を与えた。
30年代後半、ゲッぺルス率いるナチスはディートリッヒを再びドイツ映画のスターに押し上げようと画策する。しかし、彼女はこれを拒否してドイツの市民権を放棄。新たにアメリカの市民権を得たディートリッヒは、ナチスによって国家の敵という烙印を押され、彼女の出演作は上映禁止処分となった。
この処置に対しディートリッヒは、ごく親しい友人に「わたしの愛したドイツは死んでしまった」と打ち明けている。その後長きに渡ってこの思いを胸に抱き続け、失った祖国への憧憬を原動力として新しい道を歩み始めた。
30年代も終わりに近づいた頃、ディートリッヒは『砂塵』(’39)の成功とともに束の間の返り咲きを果たす。しかし第二次世界大戦の戦火が広がるなか、ディートリッヒが築いた映画女優としてのキャリアは陰りを見せ出した。
第二次世界大戦の初期、ディートリッヒは各地の米軍キャンプで支援活動を行ったほか、戦時公債の売出しにも尽力し、やがて新たな使命を見出した。枢軸国との戦いを続けるアメリカの支援に乗り出したのだ。
1944年初頭、米議会への積極的な働きかけが実り、ディートリッヒはヨーロッパ前線の連合軍キャンプで慰問活動を行うチャンスを手にする。彼女にとっては再び舞台に立つ喜びもさることながら、北アフリカでフランス解放軍とともに戦う愛人ジャン・ギャバンとの再会にも胸躍らせていた。
そして、誰もが身の危険を回避しようとするなかで、ディートリッヒを乗せた船は北アフリカに向かって出発した。同行したコメディアンのダニー・トーマスにライブ・パフォーマンスのコツを教えられたディートリッヒは、現地で見事なショーを披露。その華やかな雰囲気と久しぶりに見る女性の姿は、前線を守る疲れきった兵士たちに大きな喜びを与えた。大劇場や病院、時にはジープを取り巻く数人の観客の前で歌うこともあったが、ディートリッヒは疲れを見せることなく、兵士たちに心の安らぎを与え続けた。彼らのあたたかい歓迎と感謝の気持ちに包まれ、ディートリッヒは新しく生まれ変わろうとしていた。
最初の慰問旅行を終えてアメリカに帰還したディートリッヒは、国内に留まっても使命を果たせないと感じてヨーロッパに舞い戻る。手始めに「マレーネ、故国のために歌う」と題したラジオ放送用に、さまざまな楽曲のレコーディングを開始する。
アメリカの流行歌にドイツ語の歌詞を乗せたこれらの楽曲は、すでに弱体化しつつあったドイツ軍の士気を低下させる目的を担っていた。そのなかの一曲「リリー・マルレーン」は戦時下の流行歌だったが、皮肉なことに敵味方を問わず幅広い人気を集め、ディートリッヒの持ち歌として知られるようになった。
ロンドンやパリでも活動を続けるディートリッヒは、パットン将軍やギャヴィン将軍といったアメリカ軍高官との交流を深める。なかでもギャヴィン将軍との固い友情は、戦争末期にディートリッヒが故郷ベルリンヘと帰還する際に重要な役目を果たすことになった。
連合軍の包囲網がベルリンヘと迫るなか、ディートリッヒの精力的な慰問活動が続いた。刻々と悪化する戦況を前に、ディートリッヒはナチス・ドイツの混乱のなかで行方がわからないままの母親と姉の安否を案じ、ベルリンを訪れる機会を探した。
1944年12月、ドイツ軍大反撃の地となったバルジ近くにいたディートリッヒをめぐり、奇妙な噂が浮上した。彼女がドイツ軍に捕えられたとする噂に加え、ギャヴィン将軍自らがパラシュートで敵地に赴き彼女を救出したという噂までがまことしやかに囁かれたのだ。バルジの戦いをめぐるこれらの噂は、ディートリッヒを彩る新たな伝説として後年まで語り継がれた。
戦争が終結に向かい、ついにドイツが降伏した頃、ディートリッヒのもとにギャヴィン将軍から嬉しい知らせが届く。母親の生存が確認されたのだ。なんとかベルリン行きの許可を取りつけ、再会の喜びも束の間、わずか数ヶ月後、母は息を引き取った。葬儀に参列するため再びベルリンを訪れたディートリッヒは、最愛の母を亡くした悲しみと、次第に明らかになるナチスの爪痕への嘆きに胸を痛めるのだった。
あらゆる意味で、戦争はディートリッヒにとって大きな転機となった。戦地での慰問活動で自分なりの貢献を果たしたことに、ディートリッヒはこの上ない誇りを感じ、ハリウッドにおける成功よりも遥かに有意義で気高い目的を見出したのだ。
しかしながら、祖国ドイツにおけるディートリッヒの立場は非常に複雑なものだった。多くの人々は、彼女は正義を信じてナチスと戦った勇敢なドイツ人として受け入れていた。しかし、ディートリッヒを私欲の追求に溺れて祖国を捨てた裏切り者だと考えるドイツ人も数多く存在したのである。
戦争の終結後、ディートリッヒはキャバレーやナイトクラブを拠点に活躍するシンガーとして、新たな道を歩み始めた。公演活動の成功がきっかけとなり、ディートリッヒは再び祖国ドイツの土を踏む機会を得る。だがドイツに到着した彼女を迎えたのは、「マレーネ、ゴー・ホーム」と書かれ

スタッフ

キャスト

LINK

□公式サイト
□IMDb
□この作品のインタビューを見る
□この作品に関する情報をもっと探す