原題:Nhogakushi

OSAKA 映像フェスティバル2002正式出品作品

2002年/日本/カラー/16ミリ/モノラル/スタンダード/60分 配給:「能楽師」製作委員会/配給協力:パンドラ

2003年3月22日よりユーロスペースにてロードショー公開

(C)T・ENZAKI

公開初日 2003/03/22

配給会社名 0329

解説


映画評論家であり、日本の古典芸能を追い続けるドキュメンタリストでもある田中千世子監督が、新作選んだのは「能」だった。昨年、重要無形文化財の総合指定を受けた、観世流シテ方・関根祥人師の舞台を記録すると同時に日常の精進の一端をスリリングに捉え、解説ではなくて心に訴える映像で「能」の魅力を刺激的に伝える。

関根祥人の謡を聴き、舞を見て、彼の演ずる能を味わった人は、心おだやかではいられない。祥人の能は一族の運命をになって戦った平家の武将の魂を蘇らせる。武将はまた、歌を詠み、<もののあはれ>を知る公達でもあった。たけだけしさとたおやかさが一体化を見つめる私達は能に吸い込まれて、私達自身が能の一部になっていることにすら気づかない。

「美は秀麗な奔馬である」と、書いた三島由紀夫が生きていたら祥人の能に狂喜したに違いない。三島はおそらく思うだろう。飯沼勲がここにいる、と。「豊穣の海」四部作の第二部『奔馬』の主人公飯沼は、武の人であった。もし、輪廻転生を信ずるなら、彼は第一部『春の雪』で恋の手本を示した松枝清顕の生まれ変わりだ。

しかし、関根祥人は三島の文学とは全く無縁に能を舞う。だからこそ映画にしたい。という思いはこの作品の出発点のひとつである。それはきわめて文学的な動機であるがために虚構かもしれない、と自分でも思うほどだ。では、純粋な動機は?

映画で能をつかまえたい、というのは一番率直な動機といえる。能楽師を通して能が顕われる瞬間は、果たしていつか。能の舞台の時もあれば、稽古や談話の時、あるいは日常の何気ない行動やしぐさに能が見えてくるのではないか。そんなスリリングな期待があった。ところで、谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』で能衣装と能楽師の肌の色について書いている、
「それから、これは私一人だけの感じであるかもしれないが、凡そ日本人の皮膚には能衣装ほど映りのいいものはないと思う。いうまでもなくあの衣裳には随分絢爛なものが多く、金銀が豊富に使ってあり、しかもそれを着て出る能役者は、、歌舞伎俳優のようにお白粉を塗ってはいけないのであるが、日本人特有の肌の色、あるいは黄色味をふくんだ象牙色の地顔があんなに魅力を発揮する時はないのであって、私はいつも能を見に行く度ごとに感心する。」
鋭い観察、見事な鑑賞である。フィルムの捕らえる能楽師は、果たして谷崎の肉眼に迫れるだろうか。

ストーリー



映画「能楽師」は観世流シテ方関根祥六・関根祥人両師の<舞台>と<稽古>と<対談>から構成されている。観世流の重鎮として活躍を続ける関根祥六師は、伝統を生きる能楽師、硬派の鑑のごとき存在である。世の中の流れは、ややもすれば軽佻浮薄に傾きがちだが、祥六師は時流に抗して正統を守り抜く。対談のなかで師は「覚悟」について語る。穏やかな語り口だが、そこにこめられた思いの強さは、挿入される能「弱法師」や仕舞「隅田川」「芭蕉」からおのずとうかがえる。そして大曲「関寺小町」を2001年秋に舞った祥六師は、どんどん自由になっていく自分の能を見つめている。
祥人師は、父であり、師である祥六師の薫陶を受けて伝統の道を進み、花も実もある能楽師として活躍中である。中学・高校時代はサッカー部にも所属して、国体にも出場したが、その間も能の稽古は怠らなかった。2002年春には4度目の「道成寺」を舞う。

祥六師と祥人師は折りにふれて世阿弥の言葉を引用する。世阿弥の説く<花>とは?映画、演劇、テレビにライブ、そして文筆活動と多彩な活動を続けるアーティスト佐野史郎が世阿弥の言葉を朗読する。

スタッフ

監督・製作:田中千世子
撮影:川上皓市
録音:中山隆匡
編集:冨田功
音楽:梅林茂
プロデューサー:すずきじゅんいち
制作:フィルムヴォイス

キャスト

観世流シテ方関根祥六:関根祥人
朗読:佐野史郎

LINK

□この作品のインタビューを見る
□この作品に関する情報をもっと探す
http://web-wac.co.jp/group/filmvoice.html
ご覧になるには Media Player が必要となります