原題:Two Homelands, One Love -Lee Joong-seop's wife-

2014 年/日本/カラー/HD/80分 配給:太秦

2014年12月13日、ポレポレ東中野ほか全国順次ロードショー

© 2013天空/アジア映画社/太秦

公開初日 2014/12/13

配給会社名 0864

解説


日本の朝鮮統治、第二次世界大戦敗戦、南北分断、朝鮮戦争…

激動の歴史に引き裂かれた韓国人と日本人の70年にわたる一途な愛を描く

第二次世界大戦のさなか、三井財閥企業の役員を父に持つ令嬢・山本方子は日本の美術学校で出会った朝鮮からの留学生イ・ジュンソプと恋に落ちる。空襲が激化し戦況が最終局面を迎えた1945年、方子は命がけで海を渡り、故郷に戻ったジュンソプのもとへ嫁いでいった。幸せな時を過ごしたのもつかの間、日本の敗戦後に勃発した朝鮮戦争の戦火と貧困に追われ、再び日本と朝鮮の地で離れ離れに。それでもふたりの愛は失われず、唯一の通信手段だった手紙は200通以上に及んだ。

アジアの芸術家として初めてニューヨーク近代美術館〈MoMA〉に作品が収蔵され、遺された絵画は今や億の値がつく画家、イ・ジュンソプ。韓国では知らない者はいないジュンソプは、生前キャンバスも買えないほど貧しく、39歳で息を引き取った。彼が最後に会いたいと願ったのは、日本人の妻・方子だった。

監督は、『台湾人生』『台湾アイデンティティー』で台湾の「日本語世代」の取材を通して日本と台湾の解けない関係性を描き出し、ロングラン・ヒットを記録した酒井充子。最新作では、悪化の一途をたどる日韓関係を、一組の夫婦を通して見つめ直す。国家の対立が先鋭化した時代に、民族や政治、思想を乗り越えて信頼を築いたふたりの人生が私たちに問いかけることとは——。

ストーリー








「わたしの大切な大切なあなたへ」「いつも君だけを心いっぱい」
ふたりは200通にも及ぶ手紙で心をつないだ。再会を待ちわびながら…。

1941年、方子は文化学院の廊下で筆を洗っているときに、先輩のジュンソプと知り合う。意気投合した二人は、喫茶店や公園でのデートを重ねた。韓国が日本に統治されていた時代、朝鮮人と日本人の恋愛は、当時の日本では稀であったが、方子の両親は二人を温かく見守っていた。
1943年、ジュンソプがソウルでの展覧会を機に一時帰省するが、戦況が悪化し、東京に戻れなくなってしまう。1945年3月、方子は博多から釜山に渡る。連絡船がアメリカの攻撃で沈没したあとだったにもかかわらず、方子は危険を顧みず約束の地を目指した。釜山から列車でソウルに入り、約2年ぶりにジュンソプと再会する。ジュンソプの故郷、元山で朝鮮の伝統に則って二人の挙式が行われ、イ・ジュンソプの妻イ・ナムドクとなった。
しかし、長くは続かなかった。1945年8月15日、日本の植民地支配から解放された喜びも束の間、38度線による南北分断の混乱のなか1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。12月、方子たち家族は南へ避難する。戦火を逃れることはできたものの、難民としての貧しい生活が始まった。はじめは釜山、そして済州島へ。そして1952年、方子は体調を崩した子供たちを連れて日本人送還船で日本へ。韓国と日本で別々の生活が始まる。時代に翻弄されながらも二人は再会を信じて疑わなかった。
2013年5月、方子は車イスの旅に出た。春のソウル(韓国)。市内の「ソウル美術館」。ジュンソプの絵と向き合う方子。ジュンソプが好んで描いた牛だ。彼は朝鮮民族の象徴とも言われる「韓牛」の絵を数多く残した。
金仁浩(キム・インホ)さん。86歳。朝鮮戦争時、北朝鮮の元山から南に避難するときに一緒だった。それまで緊張しているように見えた方子の表情が、キムさんと会ったとたん一気にゆるんだ。笑顔で語り合う二人。キムさんはとても流暢な日本語だ。戦前の朝鮮で日本語教育を受けて育った。

2013年夏、済州島。南部の西帰浦(ソギポ)は、朝鮮戦争当時、難民として避難し、11か月間を過ごした場所だった。貧しい生活ではあったが、親子四人が身を寄せ合って暮らした日々は、方子とジュンソプにとってかけがえのない思い出となった。おだやかな海が方子を迎えた。
2013年秋、画家のぺク・ヨンスは自らのアトリエでジュンソプの思い出を語る。ともに新写実派に参加したこと、晩年のジュンソプへの労り。
日本と韓国のあいだに国交がなかった時代、人の往来は制限されていた。(1965年の日韓基本条約まで)。離れ離れになった家族に宛てて、ジュンソプは毎日のように手紙を書いた。明るく希望に満ちた文面に方子や子供たち、自分の絵を添えた。一方でジュンソプ自身の体調はどんどん悪化していったが、方子は知る由もなかった。1956年、ジュンソプ死去の知らせを受ける。方子はこのとき34歳。偉大な画家はその才能を十分に評価されないまま39歳の若さで亡くなった。彼の絵が認められるようになったのは1970年代になってからである。

方子はジュンソプの死後、世田谷の実家で息子二人を女手ひとつで育て上げた。
ジュンソプの死に際し、二人の子どもたちには哀しみの姿を一切見せなかったという。

スタッフ

監督:酒井充子
エグゼクティブプロデューサー:菊池笛人、 朴炳陽 
プロデューサー:小林恒行
日本プロデューサー:辻本隆行 
韓国プロデューサー:兪澄子
ナレーター:大鷹明良/速名美佐子/小林三四郎
撮影:松根広隆
音楽:廣木光一
音響:菊池信之
同時録音:川上拓也 
編集:糟谷富美夫
協力:シネマ・サウンド・ワークス 
撮影協力:済州フィルムコミッション、釜山フィルムコミッション、西帰浦市、統営市
協賛:ギャラリー現代(韓国・ソウル)
後援:在日本大韓民国民団中央本部/在日韓国人信用組合協会/在日世界韓人商工人連合会
助成:文化芸術振興費補助金
製作:天空、アジア映画社、太秦 
配給:太秦

キャスト

山本方子
山本泰成
キム・インホ
ぺク・ヨンス
チョン・ウンザ

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