原題:The Wages of Resistance: Narita Stories

全州国際映画祭2015 2014年度台湾国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品

2014年/日本/カラー/140分 配給:スコブル工房

2014年11月22日、ユーロスペースにて公開

公開初日 2014/11/22

配給会社名 0367

解説


ニッポン最後の百姓一揆・完結編

“空の表玄関”を称する成田国際空港の周囲では、機動隊による厳重な検問が現在もつづけられている。
大型機が離発着を繰り返すA滑走路南端では、闘争遺跡“岩山要塞”が不気味な姿をさらしている。二本の滑走路と旅客ターミナルビルや駐機場を結ぶ誘導路に囲まれた畑では老農夫が種をまいている。

いまも反対を貫く老農夫は、その理由を問われ、「多くの人が死んだからね」と寂しげにつぶやいた。
空港反対闘争に人生を歪められた人びとの独白が、国と村、お互いの深傷(ルビ/ふかで)を明らかにしていく。
その長い口承物語がついに浮き彫りにするのは、最後の抵抗者が愚直に守りつづける死者の言葉だった。

「お上(かみ)」(国家権力)を恐れなかった人びとの物語。

『三里塚に生きる』は、1960年代にはじまり、現在もまだ終わらない、成田空港建設反対闘争の「長い時間」を、この闘いによって人生を歪められた人びとの独白から浮き彫りにする長編ドキュメンタリーである。この国の「お上(ルビ/かみ)」の体質は、太平洋戦争における敗戦を体験した後も、何ら変わることはなかった。1966年、農村地帯である成田市三里塚に、佐藤栄作首相率いる政府は一方的に空港建設を決定。ちょうど同じころ、国策として全国各地に原子力発電所が作られていった。そして、おそらく現在の政府の本心にも上意下逹意識が脈々と流れつづけている、何の反省もなく。
 三里塚の人びとは、なぜ国の計画した空港建設に抵抗したのか。国が発動する強制的な弾圧に屈することなく、どのように闘ったのか。いかに悩み、いかに傷つき、いかに苦しんだのか。「お上(ルビ/かみ)」を恐れなかった人びとの物語——。国家権力に都合よく歴史が上書きされる前に、この物語を新しい時代を切り拓いていく人びとに託したい。
「自分の運命は自分で決める。そのためには、強い者への恐怖から自由にならなければならない」。それがこの映画のテーマである。

『三里塚の夏』を撮ったキャメラマン大津幸四郎、執念の一作!

 かつて、一本の傑作が時代を動かした。キャメラマン大津幸四郎が撮影した『日本解放戦線 三里塚の夏』(小川紳介監督/1968年・注①)である。国家権力と石礫(ルビ/つぶて)や糞尿弾で対峙する農民の勇姿を活写したこの映画は、ベトナム反戦がうねりとなり、反権力の抵抗運動が渦巻く全国の大学キャンパスで上映され、多くの若者を甚(ルビ/いた)く刺激した。やがて支援の学生や青年労働者が陸続と三里塚へ駆けつけ、空港建設反対闘争は戦後最大の抵抗運動のひとつに発展していった。
 そして、いま再び一本の傑作が時代を動かすかもしれない。土本典昭監督の水俣シリーズを撮影した後、90年代には佐藤真やアレクサンドル・ソクーロフの作品を手がけ、日本映画界を代表するキャメラマンとなった大津幸四郎が、45年ぶりに三里塚の農民にキャメラを向けた『三里塚に生きる』。キャメラでシナリオを書いていくような、そのリアルな描写力によって、国家権力に抵抗した農民の「長い時間」=人生を映像化した。この大津幸四郎執念の一作は、東日本大震災、原発事故を体験し、これからの生き方を真剣に模索している人びとの確かな道標となるに違いない。

記憶の海をさまようタイムトリップ・ドキュメンタリー

 小川紳介監督率いる小川プロは、三里塚に関する7本の映画と膨大なラッシュフィルム(注②)を残した。『三里塚に生きる』の編集を担当した代島治彦は、小川プロが残したアーカイブ映像と大津幸四郎が3年がかりで撮り下ろした現在の映像を自在に交錯させ、さらに写真家・北井一夫の写真集『三里塚』(1971年)の白黒写真(注③)と北井がこの映画のために撮り下ろした写真を挿入し、記憶の海をさまようタイムトリップ・ドキュメンタリーとも言うべき作品にまとめあげた。
 大友良英が創作した音楽は、「長い時間」=人生を旅するなかで人間が苦悩を重ねていくようにノイズが重なりながら、打楽器と管楽器のマーチ(行進曲)へと展開していく。しかし、それは勇ましいマーチではなく、むしろ闘争の犠牲者を鎮魂し、最後の抵抗者を愛惜する“かなしみのマーチ”となった。
 この映画の登場人物の記憶の海の底には、二人の死者の言葉が眠っていた。自宅と田畑を強制収用された大木よねと22歳で自死した青年行動隊リーダー三ノ宮文男の言葉。大木よねが残した「戦闘宣言」を女優・吉行和子が、三ノ宮文男の遺書を俳優・井浦新が朗読し、二人の死者の真情を過去から現在へ口承する役割を担った。題字と映画に挿入される印象的な筆文字は、気鋭の書道家・山田麻子が担当。
 
「自分の運命は自分で決める」。この映画のテーマと共振したスタッフによって、ニッポン最後の百姓一揆の物語は一本の映画となり、時代の闇に葬られることなく、時代の新たな光として甦った。

(脚注)

注①『日本解放戦線 三里塚の夏』
監督・小川紳介とキャメラマン・大津幸四郎が組んだ三里塚シリーズ第一作。1967年秋から68年夏の撮影。国による暴力的な土地収用に抵抗する反対派農民の姿を、農民の側に加担して描き出す。この映画の完成後、大津は小川と袂(ルビ/たもと)を分かち、監督・土本典昭と組んで水俣シリーズを撮る。一方、小川は若者たちと小川プロを形成して三里塚に住み込み、ドキュメンタリーを連作した。『三里塚の夏』を撮影中、大津は公務執行妨害罪で逮捕されたが、大島渚が先頭に立った日本映画監督協会の強い抗議により、逮捕の翌日に釈放されている。

注②小川プロが残した三里塚に関する7本の映画と膨大なラッシュフィルム
監督・小川紳介は『日本解放戦線 三里塚の夏』の完成後、正式に小川プロダクションを結成。1968年から山形に移動する1974年までの間に、6本のドキュメンタリーを製作した。その後、山形から通って作った『三里塚・五月の空 里のかよい路』を加えると、小川プロによる三里塚シリーズが合計7本になる。この間に撮影され、映画には使用されなかった膨大なラッシュフィルムは、現在「成田空港・空と大地の歴史館」に収蔵されている。『三里塚に生きる』では、小川プロの7本の三里塚シリーズに加え、残されたラッシュフィルムのなかから発見した貴重な“未公開シーン”をアーカイブ映像として使用した。また、地元の8mmカメラ愛好家であった故・小川喜重氏が撮影した「第二次強制代執行の記録」、小川紳介の助監督だった福田克彦が製作した三里塚に関する映画も、アーカイブ映像として使用している。

※使用映像リスト
『日本解放戦線 三里塚の夏』小川プロ作品 1968年
『日本解放戦線 三里塚』小川プロ作品 1970年
『三里塚・第三次強制測量阻止闘争』小川プロ作品 1970年
『三里塚・第二砦の人々』小川プロ作品 1971年
『三里塚・岩山に鉄塔が出来た』小川プロ作品 1972年
『三里塚・辺田部落』小川プロ作品 1973年
『三里塚・五月の空 里のかよい路』小川プロ作品 1977年
小川プロ未公開映像

『第二次強制代執行の記録』撮影:小川喜重 1971年
『土の行進』監督:福田克彦 1985年

注③北井一夫写真集『三里塚』
1965年から68年にかけて学生運動を撮影した北井一夫は、69年1月に三里塚へ向かった。当初は小川プロの事務所に寝泊まりし、小川プロのためのスチール写真の撮影もしていた。『アサヒグラフ』に連載した三里塚の写真が評価された後、71年に写真集『三里塚』を発表。この三里塚シリーズで1972年度日本写真家協会新人賞を受賞した。北井は「いちばん弱い人に立場に立たなければドキュメンタリーは撮れないことを三里塚で学んだ」と語る。『三里塚に生きる』には写真集『三里塚』の風景、人物の写真が多数使用され、その力強い白黒写真は時間芸術である映画の流れを一瞬氷結し、観る者のまなざしを釘付けにする。

ストーリー


スタッフ

監督:大津幸四郎、代島治彦
プロデューサー:赤松立太、代島治彦
撮影:大津幸四郎
編集:代島治彦
音楽:大友良英
朗読:井浦新、吉行和子

キャスト

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