原題:Rebellion: The Litvinenko Case

彼は、なぜ死ななければならなかったのか? アレクサンドル・リトビネンコ暗殺から1年…。

2007年/ロシア映画/35mm/110分/ドルビーデジタルSR 配給:スローラーナー

2007年12月22日(土)、ユーロスペースにてロードショー

公開初日 2007/12/22

配給会社名 0048

解説


彼は、なぜ死ななければならなかったのか?
アレクサンドル・リトビネンコ暗殺から1年…。

2006年11月23日、ひとりの男がロンドンで放射性物質ポロニウム210を飲まれされ、暗殺された。彼の名は、アレクサンドル《サーシャ》・リトビネンコ。イギリスに亡命中の元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐である。彼は、チェチェン戦争の裏側にある、FSBとプーチン政権の腐敗を告発していた。ソ連邦崩壊後の希望と挫折。理想は打ち砕かれ、ロシアには数多くの犠牲者とともに血なまぐさい現実が横たわっている…。生前のリトビネンコへのインタビュー、何者かによって銃殺されたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ、プーチン大統領と決裂し、リトビネンコを支援した政商ベレゾフスキーをはじめとする関係者の証言、膨大なニュース映像、そして、死後、遺された彼の家族の姿…リトビネンコと親交のあったアンドレイ・ネクラーソフ監督によるこのドキュメンタリーは、カンヌ国際映画祭において急遽上映され、論争を巻き起こした。リトビネンコは正義を、真実を信じた。彼は、なぜ死ななければならなかったのか? まもなくリトビネンコ暗殺から1年が経過しようとしている。

リトビネンコは、自らの行為を“反乱”と呼んだ…。

元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐で、イギリスに亡命していたアレクサンドル《サーシャ》・リトビネンコが毒殺された事件は、殺害に使用された放射性物質ポロニウム210という毒物の特殊性とあいまって、世界中を驚かせた。1998年11月、リトビネンコはミハイル・トレパシキンらFSBの同僚たちと記者会見を開き、公然と実業家ボリス・ベレゾフスキーの暗殺計画をはじめ、上司の大規模汚職、殺人、強奪、そしてマフィアとの関係を告発する。その後、何度かの逮捕と釈放を繰り返し、家族とともにトルコ経由でイギリスに入り政治亡命。その後も、チェチェン戦争の裏側にあるプーチン大統領とFSBの暗躍、政権の腐敗を告発していた。映画の中で、彼はインタビュアーであるネクラーソフ監督に、自らの行為を“反乱”だと呼んでいる。「反乱だ/まさに反乱/反乱をつぶされたこと以上に/モラルが通じなかったことが哀しい」とも。現在、イギリス捜査当局は、ロシアに対して、アンドレイ・ルゴボイ容疑者の引き渡しを求めているが、ロシア政府はそれを拒否している。事件は、いまだ未解決であり、真実は明らかにされてはいない。

「この映画を、彼とロシアの自由のために戦って死んだ人々全てに捧げる」
アンドレイ・ネクラーソフ監督の目の前で、“友人”は死んだ。

アンドレイ・ネクラーソフ監督は、イギリスに亡命していたリトビネンコを5年にわたってインタビューしていた。彼の暗殺事件は、その直後に起きた。「この映画の製作は私自身のための浄化であり、私の目の前で悲惨な死を遂げた友人を失ったショックに立ち向かうための努力なのです」「リトビネンコ氏は本当の殉教者。その死によって、一生を通じて訴え続けたメッセージを完成させた。それは、ロシアの残忍な警察組織の強大化を世界に向けて告発することだった。この映画を我が国ロシアの自由のために戦って死んだ人々全てに捧げる」と監督は語っている。監督は、その死まで病床に寄り添うようにして、この作品を完成させた。ネクラーソフ監督は、アンドレイ・タルコフスキー監督『サクリファイス』の助手を務め、チェチェン戦争の悲惨を描いた短編ドキュメンタリーや、リトビネンコの著書“Blowing up Russia ”にインスパイアーされた長編劇映画“Disbelief(不信)”を監督。その作品は、世界から高い評価を受けてきた。真実は何一つ明らかになってはいない。『暗殺・リトビネンコ事件』は、ネクラーソフ監督による“友人”リトビネンコへの、そして戦争と政治の間で失われた数多くの死者たちへの “ウォー・レクイエム(War equiem)”ともいうべきドキュメンタリー作品なのである。

チェチェン戦争をめぐる悲惨

カスピ海と黒海の間、コーカサス山脈の北に位置するチェチェン共和国は、ロシア連邦南部、北カフカス地方の共和国である。1991年11月、ソ連邦の解体を目前にひかえ、共和国大統領ジョハル・ドゥダーエフは独立を宣言。ロシア連邦政府は離脱を拒絶し、エリツィン大統領は連邦軍を投入。第1次チェチェン戦争が勃発した。10万人の死者を出して、96年に休戦するが、ウラジーミル・プーチンが大統領に就任した99年、モスクワでアパート爆破事件が続発。ロシア政府は、これをチェチェン人の犯行とし、「テロリスト掃討」のため、連邦軍が再びチェチェンに侵攻した。戦争は泥沼化し、20万人の死者を出しているこの戦争は現在も続いている。『暗殺・リトビネンコ事件』は、この様々な思惑が、この戦争を引き起こし、今なお継続させている姿を浮かび上がらせる。リトビネンコだけでなく、映画の中でネクラーソフ監督のインタビューに答えるチェチェンの戦争犯罪を報道・告発してきたジャーナリスト、A・ポリトコフスカヤもまた、何者かに自宅アパートで銃殺された。そして、連邦軍の兵士として夫や息子を失った家族の悲しみ、長い戦争の犠牲となったチェチェンの人々、幼い子供たちの姿が、この作品に映し出されている…。

ストーリー



「私の身に何かあった時は/このビデオを公表し/世界に伝えてほしい/彼らは暗殺など平気だし…/実際にやってきている/国内でも国外でも…」

「悪夢以上のことがサーシャの身に起きてしまった…」 映画監督アンドレイ・ネクラーソフは、語り始める。イギリスへの亡命から5年。元FSB中佐であるアレクサンドル(サーシャ)・リトビネンコは映画監督アンドレイ・ネクラーソフと数百時間を一緒に過ごし、自分の反抗の原因や10年前からのロシアでの警察国家の擡頭について話していた。そのリトビネンコが、何者かに放射性物質ポロニウム210を飲まされ、暗殺されたのだ…。

リトビネンコと親交のあったネクラーソフ監督の自宅も、何者かに荒らされた。
監督は言う。「冬の終わり頃私は/英国の捜査当局に/今回の暗殺事件で聴取を受けた/あの時は充分*話せなかったと/今にして感じている/本作が私の証言だ」。

98年、リトビネンコは、テレビでFSB上司の汚職や殺人指令を告発した。

99年には、モスクワでアパート連続爆破事件が起き、その報復として第2次チェチェン戦争が勃発した。
12月31日、引退を表明するエリツィンは言う「よい新世紀を」。

戦争の残虐さ。数多くの犠牲者たち…。

リトビネンコは、爆破テロはFSBの工作だと主張し、イギリスに亡命した。ネクラーソフ監督は、政商ベレゾフスキーを介してリトビネンコに連絡をとり、インタビューを開始した。
汚職。暗殺計画。そして、国家を戦争へ駆り立てるFSBの実態の告発…。
その長官をつとめたプーチン大統領は、学位時代その前身であるKGBに協力を申し出た。「プーチンはKGBで愛国心を学んだそうだ/つまり級友を密告しながら愛国心を学んだわけさ」。

彼の言葉は、歴史の回想と交差し、ソビエト崩壊後の自由と民主主義への希望が、いかにしてチェチェン戦争やプーチン大統領によって潰されたのかということをあぶりだしていく…。

ネクラーソフ監督は、チェチェンの戦争犯罪を報道・告発してきたジャーナリスト、A・ポリトコフスカヤにもインタビューをした。
「劇場占拠事件の犯人の1人が/今プーチン政権で働いてるの」
「書いてて吐き気がしそうだったわ/汚らしいトイレに迷い込んだ気分」
「世間は無関心/あの悲惨なテロがヤラセだったのに…/政府も平気な顔よ/何の抗議行動もないと見通してる/集会もデモも危険なことは何もない/彼らは安泰ってわけ/私たちの苦痛や苦悩を悠然と高みから見下ろし/こう思ってる”好きに書くがいい””必要なら消すが今は生かしといてやる”」

A・ポリトコフスカヤは、自宅のアパートで何者かに銃殺された。

そして、プーチン大統領自身にまつわる疑惑…。
リトビネンコは、自らの行為を“反乱”と呼んだ。
「反乱だ まさに反乱/反乱をつぶされたこと以上に/モラルが通じなかったことが哀しい」
に負わせた。

ロンドンのバーで彼の紅茶にポロニウム210を注いだと容疑を掛けられているルゴボイはモスクワでのインタビューでリトビネンコ暗殺への関与を否定している…。

そして、遺された彼の家族。
妻であるマリーナは、彼の事を語りながら一筋だけ涙を流した。
悲嘆にくれるリトビネンコの父親…。
マリーナは言う。

「1つだけ教えて/ポロニウムはどこから来たの?/それだけ…」

スタッフ

プロデューサー:オルガ・コンスカヤ
撮影:マルチン・ヴィンターバウアー+セルゲイ・ツィハノビッチ
音楽:イリーナ・ボグシェフスカヤ
録音:マチアウス・シュワブ
デジタル・カラリスト:フィリップ・グロースマン
字幕:太田直子
字幕監修:田原総一朗
配給:スローラーナー

キャスト

アレクサンドル《サーシャ》・リトビネンコ
マリーナ・リトビネンコ
アンナ・ポリトコフスカヤ
ボリス・ベレゾフスキー
アンドレイ・ルゴボイ
ミハイル・トレパシキン
ウラジーミル・プーチン

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