原題:KIPPUR

言葉にさえもできない真実の戦争−

2000年カンヌ国際映画祭正式出品作品 2000年東京フィルメックス/アジア[新・作家主義]映画祭 特別招待クロージング作品

2000年/イスラエル・フランス・イタリア/カラー/118分/1:1.85ビスタサイズ/ドルビーSRD/ 配給:アルシネテラン

2002年7月5日DVD発売/2002年7月5日ビデオ発売&レンタル開始 2001年12月22日よりシャンテシネにて独占ロードショー公開

ビデオ時に変わった場合の題名 キプール/勝者なき戦場

公開初日 2001/12/22

配給会社名 0013

公開日メモ イスラエルの名匠アモス・ギタイが、ヨム・キップール戦争での実体験をもとに、戦争の光景を浮き彫りにした入魂作。2000年カンヌ国際映画祭正式出品作品。

解説


アモス・ギタイ——現代イスラエル映画界を代表する鬼才は、73年より映画やテレビ、ビデオ、舞台と多彩なメディアを渡り歩き、また亡命先フランスをはじめアメリカ、フィリピン、タイ、ロシア、そして日本などへと、活躍の場を広げてきた監督である。前作『カドッシュ』(98)がアメリカやフランスで商業的に成功を収めたのは記憶に新しいが、それ以前から世界中での評価は高く、多くの国際映画祭などで紹介され、ロンドン、ニューヨーク、パリ、モスクワでは大規模な回顧展も行われてきた。日本でも98年に「アモス・ギタイ映画祭」が開催され、既に多くのファンを獲得している。またギタイは、フランシス・フォード・コッポラやサミュエル・フラー、ベルナルド・ベルトルッチ、フィリップ・ガレルといった映画人と親交が深く、彼らから絶大な支持を受けてきた。
そんなギタイの映画制作の動機となった出来事が、本作のモチーフとなっているヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)である。当時23歳だったギタイは、負傷兵をヘリコプターで移送する部隊に配属され、ある日、乗っていたヘリコプターがシリア軍に撃墜されて九死に一生を得たのだった。この体験はギタイに一生忘れることのできない記憶を刻み付け、それ以後、個人を表現するための手段として、映画を撮り始めた。95年には、ヘリコプターに同乗していた人々の関係者を訪れたドキュメンタリー「キプール—戦争の記憶」を発表しているが、今回長年の思いがやっと実現し、イスラエル映画としては破格の8億円の製作費をかけて、ヨム・キプール戦争におけるギタイの強烈な記憶が映像化されたのだ。
そこに描かれるのは、従来の戦争映画にありがちな戦闘シーンの応酬といった類のものではない。それは、自ら敵に銃を向けることはないものの、前線で戦争という”悪夢”に直面する救急部隊に配属された人々の物語であり、無秩序の中で感じる焦燥感や無力感、嫌悪感、疲労感、そして何より、錯乱してしまうほどの恐怖に苛まれた人間としての戦争である。ギタイ本人の実体験に基づくだけあり、ドキュメンタリーさながらの力強さを持つが、だからと言って個人的なセンチメンタリズムに浸っているわけではない。それは戦争の感覚的体験を観客に共有させようとするものであり、実際のイスラエル軍から借りた戦車やヘリコプターを用いて、実戦さながらに戦場を襲う爆破シーンは圧巻である。こうして、かつて誰も描こうとしなかった戦争のリアルな姿が描かれた本作は、時に観ているものをも悪夢へと突き落とすだろう。
 実戦さながらの迫力あるシーンの数々を映像化したのは、アラン・タネールやダニエル・シュミットの撮影で有名なレナート・ベルタ。93年にフランスから母国へ戻ったギタイがイスラエルの3都市(テルアビブ、ハイファ、エルサレム)を舞台に制作した3部作『メモランダム』(95)、『ヨム・ヨム』(98)、『カドッシュ』(98)からの付き合いである。その他にも、「ベルリン・エルサレム」(89)や「ゴーレム、さまよえる魂」(92)、「カドッシュ」など多くのギタイ作品を製作しているローラ・トゥルシェや、同じく製作のシュキ・フリードマン(「メモランダム」(95)「カドッシュ」)、また「カドッシュ」組とも言える編集のモニカ・コルマンとコビ・ネタヌエル、衣装のラウラ・ディヌレスコ、美術のミゲル・マルキンなどがギタイの世界を支えている。
またキャストには、「カドッシュ」のヨラム・ハタブとウリ・ラン・クラズネル、「エステル」(86)、「ベルリン・エルサレム」、「ヨム・ヨム」(98)のジュリアーノ・メルらギタイ作品常連の俳優とリオン・レヴォやトメル・ルソといった若手俳優が起用されている。

ストーリー




1973年10月6日。国中すべてが静寂に包まれていたヨム・キプール(贖罪の日。ユダヤ歴で最も大切な聖日)——その日はイスラエルにとって特別な日となった…。
 
ワインローブとその友人ルソは、兵役に従事することになっている特別部隊エゴズを探して、ゴラン高原を車で走らせていた。しばらくすると国防軍のラジオ局が、非常事態宣言を告げる。エジプト・シリア両軍が突如イスラエルに侵攻してきたのだ。これがいわゆるヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)の始まりだった。
ワインローブとルソがさらに車を進めると、シリア軍による爆撃音が耳を劈く。一般市民はもとより軍人さえもが混乱し、あたりは混沌としていた。2人はメトウーラへ戻れという軍人の言葉に、前線行きを諦める。
別の道へと進むと、ワインローブとルソはダマスカス進軍の基地に遭遇した。2人の部隊は既に出た後だと知らされるものの、ダマスカス進軍に同行するのは避けて、さらに道を進む。結局彼らはエゴズを探し出せずにいたが、翌朝、ラマト・ダヴィドの航空基地に合流しようとしていたクロイツナー空軍医と出会う。そこで2人は本来の部隊から離れ、空軍の救急部隊へ入ることを決める。
 中尉のルソは、即座にヘリコプターでの救命任務を伴う戦闘班の責任者に任命された。負傷兵や撃墜されたパイロットなどを救出するのが役目だ。その任務には迅速さが求められたが、激しい戦闘と多大な損失に、今までは救助活動を組織することは不可能だった。
 ワインローブとルソが任務に就くや、その班は編成された。ルソは戦闘班にワインローブとガダッシを入れ、ヨラム大尉の操縦する”ベル205″に乗り込んだ。副操縦士のコビ中尉、空挺部隊の整備兵カウチンスキー、そしてクロイツナー空軍医も同行していた。
 ヘリコプターは負傷者を救出するために、ゴラン高原の戦場と病院との間で、幾度とない往復を繰り返していた。それが何日も続く。”ベル”は至る所へ送り込まれた。1967年の停戦ラインやシリア軍の攻撃によって破壊された掩蔽壕《ルビ:えんぺいごう》、フシュニアの戦場、涙の谷、さらに激しい戦車戦が繰り広げられている北部へと…。
当初の興奮と熱狂は疲労と無力感、そして嫌悪感へと取って変わられていった。爆音の響く中、重症の負傷者には応急手当を施しながら運び出し、一方で息絶えた者は後ろ髪を引かれる思いでその場に放置するしかない。負傷者をヘリコプターに運び入れると、安全な場所で救急車に移し替え、病院まで搬送する。そして隊員のみとなった”ベル”は、ラマト・ダヴィド基地へと戻っていく。機内では、様々な思いをそれぞれが胸に抱えながら。
 時間の感覚は薄れ、毎日が地獄のように感じられた。今日も聞こえてくるのは、追撃された飛行機やヘリコプターの話や、死傷者の数といった話題ばかりだ。人々の苦痛の叫び声や血、死者の姿に夜な夜な慄きながら、7人の男たちは時に打ち明け話をしたり、真摯に恐れや不安を分かち合ったりしていた。クロイツナー空軍医は母親の思い出をルソに話しながら、彼女の面影を追っていた。ルソはその話を聞きながらどこか落ち着く自分を感じていた。ワインローブはかつてない恐怖心から、安心して眠ることができなくなっており、そんな彼をルソは落ち着かせようとなだめるのだった。
10月11日。それは、ワインローブ23歳の誕生日の翌日であった。彼らはシリア領で攻撃されたパイロットを救出する任務を受けて、基地を出発した。負傷者を見つけ、担いでヘリコプターまで戻ろうとするが、泥濘(ぬかるみ)に足を取られてなかなか歩を進めることができない。頭上では砲撃の嵐が降り注いでいる。焦れば焦るほど、自らも沼地に沈んでいくが、やっとのことで底なし沼から這い上がる。ガダッシは恐怖のあまり錯乱状態に陥っていた。しかし、彼らの努力も虚しく、男は既に息絶え絶えの状態で、彼を残して部隊は出発を余儀なくされた。立ち上がることができずにその場にへたり込むワインローブたち。そんな彼らに雨が容赦なく打ちつける。
結局パイロットをヘリコプターに乗せることができずに基地へと引き返す7人。そんな彼らを突然、衝撃が襲った。ミサイルが直撃したのだ。一瞬何が起きたのかわからず、パニックに陥る機内。副操縦士のコビ中尉の意識は既にないようだ。警報ブザーの音が鳴り響く中、次いで強い震動が起こり、彼らの乗ったヘリコプターは地面に叩きつけられた。身体を起こし、煙が立ち上る機内からやっとの思いで脱出した彼らは、言葉もなく、ただそこにいるしかなかった。

スタッフ

監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、マリー=ジョゼ・サンセルム
撮影:レナート・ベルタ

キャスト

リオン・レヴォ
トメル・ルソ
ヨラム・ハタブ
ウリ・ラン・クラズネル

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